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朽網鎮則筆書状

Keio Object Hub
人物
年代
制作年 AD16
タイトル
クタミシゲノリヒツショジョウ
コレクション
所管
斯道文庫 キャンパス 三田
資料番号
AW-CEN-000217-0000
ライセンス
CC BY 画像ライセンス
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

URL
基本分類
美術
AIタグ
植物学 生命体 フォント 矩形 パターン

朽網鎮則〈くたみしげのり・生没年未詳〉は、桃山時代の武将で、大友氏の家臣・朽網鑑康〈あきやす・?-1586〉の子。茶の湯の数寄に心を潜めてもいた。左近衛大夫に任じ、剃髪して宗策(そうさく)を号した。天正6年〈1578〉の大友の日向遠征の時には、鑑康・鎮則父子は肥後に留まってまま随伴せず、同8年大友氏は島津氏に降伏。同14年の島津氏の豊後入侵の際には、同父子は山野城に籠もったままであったという。しかし、同15年の豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉の島津征伐で島津氏は降伏。大友義統〈おおともよしむね・1558-1610〉は、先年(天正8年)島津に降伏した大友家臣を追討、この時、鎮則は本州上方に逃れるが、その後の消息は未詳。この書状は、千利休〈せんのりきゅう・1522-91〉の子・少庵〈しょうあん・1546-1614〉に宛てたもの。自署に宗策とあることによって出家後の執筆。少庵との関係から、晩年近くのものであろう。少庵は、天正19年〈1591〉2月利休切腹ののちは、蒲生氏郷〈がもううじさと・1556-95〉を頼って、会津若松に流寓した。が、徳川家康〈とくがわいえやす・1542-1616〉のとりなしで赦免される。文禄3年〈1594〉のことであった。この手紙はその少庵が赦免後、伏見城の秀吉に召し出されて、茶事をつとめ、利休の旧居を下賜された次第を物語っている。伏見城は、天正末年ころに工を起こし、次第に偉容を整えていった。当時、利休が伏見の地に屋敷をもっていたことを知る資料として、見逃しがたい価値がある。闊達自在、目にも止まらぬ速書きが、いいがたい筆線の美しさを示している。「今朝、御使者の由、他行せしめ、只今承り候。昨日、伏見へ御出仕を遂げられ、御仕合能く、殊更、利休の御宿給わられ候由、誠に誠に、珍重、珍重。我等式帰宅、得ず候。程近く候間、又一入に存じ申し候。定めて、御普請等、これ有るべく候間、随分、申し付けらるべく候。御用の事等承るべく、景様(上杉景勝)も昨朝御帰宅せしめ候。爰元、用所等仕舞い、ゆるゆると申し談ずべく候。恐惶謹言。尚々、御取り紛れたるべく候間、貴待ち入るまじく候。貴面を以って申すべく事に候。扨々、珍重、珍重。一身の大慶、これに過ぎず申し候。二十七日/少庵尊老下/宗策」

尚々御取紛 たるへく候間以貴面可申 貴待入ましく候今朝御使者之由令他行事候扨々只今承候昨日伏見へ珍重々々一身之大慶被遂御出仕御仕合能殊更不過之申候利休之御宿被給候由誠/\珍重々々我等式帰宅不得候程近候間又一入存申候定而御普請等可有之候間随分可申付候御用之事等可承景様も昨朝令御帰宅候爰元用所等仕舞ゆる/\と可申談候恐惶謹言廿七日少庵尊老下宗策

ライセンスなど

資料番号
AW-CEN-000217-0000
ライセンス
CC BY
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

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所管
斯道文庫
キャンパス 三田
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基本分類
美術

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オブジェクトの詳細

識別情報

タイトル(英題)
Letter by Kutami Shigenori

物理的特性

重量と数量
員数 1幅

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タイトル(英題)
Letter by Kutami Shigenori

物理的特性

重量と数量
員数 1幅