花山院忠長筆消息

- 人物
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作者花山院忠長
- 年代
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制作年 AD17
- タイトル
- カザンインタダナガヒツショウソク
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
花山院忠長〈かざんいんただなが・1588-1662〉は、左大臣花山院定煕〈さだひろ・1558-1634〉の二男。順調に累進して従四位・左近衛権少将に至った(17歳)。が、慶長10年〈1609〉7月、22歳の時、烏丸光広(からすまるみつひろ)・大炊御門頼国(おおいみかどよりくに)・飛鳥井雅賢(あすかいまさかた)・難波宗勝(なんばむねかつ)・徳大寺実久(とくだいじさねひさ)・松木宗信(まつきむねのぶ)らの公家たちとともに、宮廷の女官5人と遊興にふけり、密通していたことが発覚。宮廷の風紀粛正を決意した後陽成天皇は、幕府に命じてそれぞれを厳罰に処した。忠長は蝦夷(北海道)松前に流罪の身となった。のち津軽に移されたが、赦免されたのは、寛永13年〈1636〉、49歳の時。武蔵国に住み、出家して浄屋(じょうおく)を号した。慶安5年〈1652〉には念願叶って帰洛、10年後の寛文2年〈1662〉、75歳で没した。忠長は、書道史上、近衛流の名手として知られる。この書状にもその影響が顕著である。内容の詳細は不明ながら、「此地も替事無之候」「ふりふりと逗留」「馬一疋引上せ申度候人足とも大勢上り申候」「馬とゝのひ候て上り申候」などの文言などから、忠長が配流先から赦されて江戸に戻る直前の身辺の動向が察知される。宛名の「早野茂兵衛」は不明。「幸便の条一筆啓せしめ候。軽米兵介(かるまいひょうすけ・奥州九戸郡の軽米城主・軽米兵右衛門の一族か)下るの刻も書状を以って申し度く候へども、去り難き隙入り候て、恐れながら其の儀無く候。先ず以って其元無事の由珍重に候。此の地も替(変)わる事これ無く候間、心安からるべく候。将亦、我等事も未だ御目見の隔て申さず候故、ふりふりと逗留。本馬(本間)太兵衛なども懇切にて、米など心得にて遣わされ候由祝着の事に候。よくよく心得候て申され給うべく候。頼み入り候。此の度、書状を以って申し度く候へども、此の仁(使者)不慮に(思いがけず)参り候間、便俄に候て、頓而(やがて)、期不(期せず)書状を以って申すべく候。万々、頼み入り候。恐々謹言。/尚々、昭九郎にもよくよく御心得頼み入り候。仍って此の度、馬一疋引き上せ申し度く候。人足ども大勢上り申し候由申し候間、土佐殿へ申し候へば、引き上せ申し候処、其々の事に候間、馬調ひ候て、上り申し候はば、路次中以下懇ろに入り申し付けられ給うべく候。是又、頼み入り候。猶、後音の時を期し候。卯月(四月)二十三日花(山院)少将忠長(花押)早野茂兵衛殿参る」
[上段]尚々昭九郎ニもよく/\御心得頼入候仍此度馬一疋引上せ申度候人足幸便之条一筆令啓候とも大勢上り申候由申候間軽米兵介下之刻も土佐殿へ申候へハ引上せ申候処其々以書状申度候へ共難去之事候間馬とゝのひ候て隙入候而乍恐無其儀候上り申候ハゝ路次中以下先以其元無事之由懇に入被申付可給候是又珍重ニ候此地も替事頼入申候猶期後音之無之候間可被心安候将亦時候我等事も未御目見之隔不申候故ふり/\と逗留[下段]本馬太兵衛なとも懇切にて米なと心得にて被遣候由祝着事候よく/\心得候て被申可給候頼入候此度以書状申度候へ共此仁不慮ニ参候間便俄ニ候而頓而期不以書状可申候万々頼入候恐々謹言花少将卯月廿三日忠長(花押)早野茂兵衛殿まいる
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Kazan-in Tadanaga
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
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