木下長嘯子筆書状

- 人物
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作者木下長嘯子
- 年代
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制作年 AD17
- タイトル
- キノシタチョウショウシヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
木下長嘯子〈きのしたちょうしょうし・1569-1649〉は、豊臣秀吉の正室於祢(高台院)の兄・木下肥後守家定〈きのしたいえさだ・1543-1608〉の長男。諱は勝俊。幼時から秀吉に仕え、小田原・朝鮮の役に従軍。文禄3年〈1594〉若狭国小浜城主、左近衛少将に任じた。関ヶ原の戦では伏見城の留守をあずかりながら、石田三成の西軍に攻められ、敵前逃亡、任務を放棄して退城してしまった。これにより、所領没収。かれは出家して洛東東山(のち洛西大原野)に隠棲、長嘯子と号して、風雅の生活を送ることになる。とくに和歌にすぐれ、公卿・武士・町衆を問わず広く交遊を結び、松永貞徳〈まつながていとく・1571-1653〉と歌壇を二分する一方の旗頭として活躍した。『挙白集』『長嘯子文集』を残している。「頃老病相発候故、書中早々無正體候」という文面から推して、長嘯子の晩年のことと容易に推察される。長嘯子の晩年期に大納言に在って、和歌に堪能な公卿を考察したときに、烏丸光広(大納言在任は、元和2年〈1616〉~寛永15年〈1638〉)、あるいは、中院通村(同、寛永6年〈1629〉~同19年〈1642〉)が注目される。が、確証はない。『後拾遺和歌集』の写本の貸与を依頼されながら、漸く田舎から届いたので献上すると申し送っている。老躯に病、体調芳しくないと自白するように、その筆跡にもその不如意の様子がにじみ出ている。「去年従り度々仰せ下され候『後拾遺(和歌集)』は、田舎に御座候に依り、遅々、難義(義)を致し候間、漸々、唯今到来候条、即今これを献じ候。万々、然るべき様御取り成し庶成(お願い)する所に候い了んぬ。頃(このごろ)、老病相発り候故、書中早々正体も無く候。不宣、々々。大納言様几下長嘯(子)より」
己左従去年度々被仰下候後拾遺者依田舎御座候遅々致難義候間漸々昨日到来候條即今献之候萬々可然様御取成所庶成候了頃老病相発候故書中早々無正體候不宣々々大納言様几下長嘯
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ライセンスなど
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グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Kinoshita Choshoshi
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
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