三条西公条筆書状

- 人物
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作者三条西公条
- 年代
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制作年 AD16
- タイトル
- サンジョウニシキンエダヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
三条西公条〈さんじょうにしきんえだ・1487-1563〉は、室町時代の公卿。三条西実隆〈さねたか・1455-1537〉の子。二男ながら、兄公順の出家により、家督を継いだ。永正4年〈1505〉参議、同8年権中納言、大永元年〈1521〉権大納言と進み、天文10年〈1541〉内大臣、翌11年には右大臣を極めるというめざましい官途昇進であった。が、天文13年嵯峨の二尊院(にそんいん)において出家、仍覚(じょうかく)と号した(58歳)。その後、永禄6年12月に没するまでの晩年は、もっぱら諸国遍歴、風雅三昧の生活であった。父実隆の薫陶もあり、和漢の学を修めた当時一流の文化人として知られる。この書状は、権大納言万里小路秀房〈までのこうじひでふさ・1492-1563〉に宛てたもの。冒頭「朔旦」とは、朔旦冬至の儀式のこと。冬至と11月朔日が同日になった時の祝いで、奈良時代から江戸時代まで行われた。たまたま、天文5年〈1536〉11月1日がその日に相当した。この日、公条は、天皇に賀表をたてまつる上卿の役目を仰せつかった。「御方」すなわち伏見宮貞敦親王〈さだあつ・1488-1572〉の沙汰であったようだ。また、同日は、親王の王子(12歳)の親王宣下(煕明親王)も併せて行われた。公条は同じく上卿をつとめている。時に50歳であった。さらに、「老父」たる父実隆は82歳(死去の前年)の病躯(同年3月中風に倒れ、手足不自由の身であった)にあった。公条は、その看病に明け暮れていたという。そのために御礼の挨拶が出来ないでいたことを詫びている。なお、「老母」は、勧修寺教秀のむすめ。また、返し書きに見える「二条若公侍従事」とは、同日、二条尹房〈ただふさ・1496-1551〉の子晴良〈はるよし・1526-79〉が侍従(従五位下)に昇進した慶事を指す。闊達自在の筆致は、父実隆の筆跡に酷似する。学問と同様に手習いにおいても父子の庭訓の深さが見てとれる。「朔旦(朔旦冬至)の賀札無事遂行せられ、其の節に候。珍重、殊に御方(貞敦親王)申す御沙汰邂逅の公事、御自愛察し申し候。下官(卑称=公条)不慮の奉行、且つは冥加の由に存ずる計りに候。兼ねて又、侍者禅客、是又無事御祝着察し奉り候(大徳寺古岳宗亘が同月十七日に正法大聖国師の号を賜ることをいうか)。其の時節、則ち申すべく候処、老父(実隆)所労、以っての外の事にて、旁た忩々申さず慮外に候。今朝、適、聊か験(快気)の様に候。老体の事に候間、油断無き事、御察しに過ぎ候。老父も老母も禅客無事に候条、千万御心安く候由、能々申すべき由申し候。旁た、参り申すべく候処、昼夜寸暇を得ず、看病仕り候間、其の儀無く候。猶、面拝を期し候。恐々謹言。/尚々、朔旦無事珍重の由、御方へ別して申すべく候処、御伝達恐れながら憑み存じ候。将亦、二条若公(二条晴良)侍従の事、昨日披露せしめ候。御方へ仰せ出でらるべく候由に候。/然らば、口宣案、早々所望の由、申し度く候。十一月四日公条/万里小路殿公条」
早々所望由尚々朔旦無事珍重之由御方へ申度候別可申候処御伝達乍恐憑存候将又二条若公侍従事昨日令披露候御方へ可被仰出候由候然者口宣案朔旦賀札無事被遂行其節候珍重殊御方申御沙汰邂逅公事御自愛察申候下官不慮奉行且冥加之由存計候兼又侍者禅客是又無事御祝着奉察候其時節則可申候処老父所労以外事にて旁忩々不申慮外候今朝適聊験之様候老躰事候間無油断事過御察候老父も老母も禅客無事候条千万御心安候由能々可申由申候旁可参申候処昼夜不得寸暇看病仕候間無其儀候猶期面拝候恐々謹言十一月四日公條万里小路殿公條
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Sanjonishi Kinyeda
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1巻
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