織田有楽筆書状

- 人物
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作者織田有楽
- 年代
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制作年 AD17
- タイトル
- オダウラクヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
織田有楽〈おだうらく・1547-1621〉は、桃山から江戸時代にかけての武将・茶人。織田信秀〈のぶひで・1510-51〉の第11子で、信長〈のぶなが・1534-82〉の弟にあたる。名を長益(ながます)、字は源五・源五郎、剃髪して有楽・有楽斎・如庵(じょあん)と号した。本能寺の変後、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉に仕えて、摂津国島下郡味舌(ました)に二千石の知行を与えられ、さらに関ヶ原の合戦では徳川方に属し、その功により大和国山辺郡の三万石の領主となった。その後は、東山に隠棲し、領地を子に分け与えた残りの一万石を糧に茶事を楽しんだ。千利休〈せんのりきゅう・1522-91〉に茶道を学び、有楽流という一派を立てた。東京の千代田区の有楽町の名は、有楽がかつて家康から数寄屋橋門外に与えられた邸趾の名残をとどめるものである。宛名の「春可老」、文中の「保長老」「晫長老」ともに伝不詳ながら、師走に入っての一日、茶事に誘う文面から、有楽が当時親しく交遊していた茶人仲間の僧であろうか。日付に「壬(=閏)十二月」とあることにより、元和6年〈1620〉12月のものと知る。翌7年12月12日、75歳で没する1年前、有楽の最晩年の筆である。「明二日の昼、保長老、晫長老申し入れ候間、御相伴に御出で待ち申し候。明朝は、両長老共に玄端殿、御出で候間、首尾して、相伴に御越し尤もに候。恐々謹言。返々、朝昼共に必ず御出待ち申し候。以上。壬十二月一日有楽/春可老有楽/御宿所」
返々朝昼共ニ必御出待申候以上明二日昼保長老晫長老申入候間御相伴ニ御出待申候明朝者両長老共ニ玄端殿御出候間首尾相伴ニ御越尤候恐々謹言壬十二月朔日有楽(花押)[封]春可老有楽御宿所
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Oda Uraku
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
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