千利休筆消息
- 人物
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作者千利休
- 年代
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制作年 AD16
- タイトル
- センノリキュウヒツショウソク
- 材質・技法・形状
- 紙本墨書
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
千利休〈せんのりきゅう・1522-91〉は室町~桃山時代の茶人で茶道の大成者。北向道陳〈きたむきどうちん・1504-62〉に茶の湯を学び、のち、武野紹鷗〈たけのじょうおう・1502-55〉に師事した。幼名は与四郎、のち宗易。利休は居士号。はじめ、織田信長〈おだのぶなが・1534-82〉に茶頭として仕えたが、信長没後は豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉に仕えた。利休は秀吉の信任厚く、茶頭として重用され、政治力も蓄えていった。が、やがて秀吉の怒りをかい、天正19年〈1591〉2月28日、秀吉の命により切腹した。その理由については諸説あるが、実のところは不明。利休70歳であった。この手紙は、京都上京の餅屋・川端道喜〈かわばたどうき・?-1592〉に宛てたもの。利休が道喜に貸していた茶壺を「せん元(専元・仙元か)」に受け取りに遣わしたこと、昨日贈られた餅が忘れがたい味であったことなどを伝える。また、文中の「はしたてのつほ(=橋立の壺)」は、利休愛蔵の葉茶壺で、将軍足利義政〈あしかがよしまさ・1436-90〉の遺愛と伝えられる品。利休の茶会記にしばしば登場するほどの名物で、秀吉はこの壺を所望したという。が、利休はこの申し入れを容れなかった。この一件が利休切腹の一要因ともなっており、利休の自刃をめぐる重要な鍵を握る一通である。結局、利休の最期に秀吉はこの壺を召し上げ、大徳寺聚光院(じゅこういん)に寄託させた。が、のち聚楽第に収め、さらに加賀の前田利長〈まえだとしなが・1562-1614〉に下賜した。「橋立(箸立とも)の壺、せん元(専元・仙元か)に御渡し有るべく候。昨日の餅、一段にて忘れ難く存じ候。金蔵衆(御金蔵の番人)へ御礼を折々申したく候。再々にて候まま、度々御礼を忘れ申し候。かしく。三月十八日宗易/川(端)道喜老へ人々御中宗易」
はしたてのつほせん元に御わたしあるへく候昨日のもち一たんにてわすれかたくそんし候かねくらしゆへ御礼を折々申たく候さい/\にて候まゝたひ/\御礼をわすれ申候かしく三月十八日宗易(花押)[封]川道喜老へ宗易人々御中
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
Keio Object Hub では、データのオープン化を進めるだけではなく、オープン・データを活用してどのような体験がデザインできるか、さまざまな試みを行っています。
オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Sen no Rikyu
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
- 付属品
- コクヨ便せんの書付(利休文 碌々斎箱 宛名ハ川端道喜…)
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