蘭図
- 人物
-
作者一休宗純
- 年代
-
制作年 室町時代(15世紀)
- タイトル
- ランズ
- 寸法
- 右80.5×26.1、左80.6×26.1
- 材質・技法・形状
- 紙本墨画
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- ミュージアム・コモンズ キャンパス 三田
一休宗純〈いっきゅうそうじゅん・1394-1481〉は、後小松天皇〈ごこまつてんのう・1377-1433〉の子。母は南朝の遺臣・花山院某のむすめという。6歳の時、山城の安国寺の住持・象外集鑑〈しょうがいしゅうかん・生没年未詳。鉄舟徳済〈てっしゅうとくさい・?-1366〉の弟子〉にしたがい侍童をつとめ、やがて周建(しゅうけん)の名が与えられた。その後、応永22年〈1415〉22歳の時、近江堅田の祥瑞庵(ずいしょうあん)に、かねて私淑していた華叟宗曇〈かそうそうどん・1352-1428〉を訪ねて宗純の法名を、さらに応永25年〈1418〉には一休の道号を授かった。その後も畿内の諸寺を転住、康正2年〈1456〉63歳の時に、山城国薪(京都府京田辺市薪)に酬恩庵(しゅうおんあん)を建て晩年の住処とした。文明6年〈1474〉、81歳にして、後土御門天皇〈ごつちみかどてんのう・1442-1500〉の勅命により大徳寺第47世に出世したが、養叟宗頣〈ようそうそうい・1376-1458〉一派との不和のため入寺を拒否した。やがて同10年〈1478〉、一休に参禅した堺の豪商・尾和宗臨〈おわそうりん・?-1501〉によって大徳寺の再建が始まったが、その完成を待たず、同13年11月21日、酬恩庵にて死去した。88歳であった。かれは、生涯を通じて、名利を求めず権力にも媚びず、つねに自らの信ずるところにしたがって行動した。それが周りからは風狂奇行の人ととらえられた。かれの代表的詩文集『狂雲集』にもその面目がうかがわれる。その奇行に富む性格は、自由奔放の筆跡にも反映、極めて個性の強い筆致を示している。この作品に描かれる蘭は、古来、梅・菊・竹とともに四君子の1つに数えられ、高潔の象徴として、宋元画の恰好の画題であった。わが国でも室町時代以降の水墨画に多く描かれている。興の赴くまま絵筆を揮い、気宇壮大の世界をあらわしている。一休独自の境地を遺憾なく発揮する作品である。「〔右幅〕空しく聞く、蕙佩、世に芳を伝うることを、楚国の詞人、吟興長ず。湘水は須いず、逆耳の言、泪羅(屈原のしずみたる川の名)江上、春香を送る。東海の純一休老、画と詩と一筆(印)」「〔左幅〕沢に吟じ沙を懐いて、身は迍邅す(なかなか進まない)、湘江の流れは恨んで、水汲々たり。楚人、千歳、幾多の涙ぞ、花葉、空しく摧く、白露の前。紫野一休、画と詩と一筆(印)」
〔右幅〕空聞蕙佩世傳芳楚国詞人吟興長湘水不須言逆耳泪羅江上送春香東海純一休老画与詩一筆(印)〔左幅〕紫野一休画与詩一筆(印)吟澤懐沙身迍邅湘江流恨水汲々楚人千歳幾多涙花葉空摧白露前
一休宗純(1394−1481)は、室町時代の禅僧。父は後小松天皇。少年時、建仁寺などで修行、その後大徳寺住持だった華叟宗曇(かそうそうどん)(1352−1428)に師事、京都・堺などを転々としながら風狂の僧として人々に知られた。詩と書を多く残している。本作は、一対の蘭の絵と一体化するように、それぞれの幅に七言絶句を記す。『狂雲集』には収めない。
「常盤山文庫×慶應義塾 臥遊─時空をかける禅のまなざし」展(2023.10 慶應義塾ミュージアム・コモンズ)図録 掲載
「常盤山文庫×慶應義塾 臥遊─時空をかける禅のまなざし」展(2023.10 慶應義塾ミュージアム・コモンズ)図録 掲載
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
Keio Object Hub では、データのオープン化を進めるだけではなく、オープン・データを活用してどのような体験がデザインできるか、さまざまな試みを行っています。
オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Orchids
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 2幅
- 付属品
- 紙札2
来歴
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