後奈良天皇二首和歌懐紙

- 人物
-
作者後奈良天皇筆
- 年代
-
制作年 AD16
- タイトル
- ゴナラテンノウニシュワカカイシ
- 寸法
- 32.2×44.8
- 材質・技法・形状
- 紙本墨書
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
後奈良天皇〈ごならてんのう・1496-1557〉は、後柏原天皇〈ごかしわばら・1464-1526〉の第二皇子。名は知仁(ともひと)。大永6年〈1526〉、後柏原天皇の崩御をうけて践祚したが、皇室がもっとも衰微した事態に、即位もままならず、ようやく10年後の天文5年〈1536〉に即位した。折から飢饉・疫病に苦しむ万民を哀れみ、自筆の「般若心経」を諸国一宮に奉納祈願したことは、天皇の優しい性格を端的にあらわすものである。その書は、父帝の影響を強く受け、仮名・漢字ともにその豊潤でのびやかな書風は、後柏原院流そのものである。この和歌懐紙は、自署はないものの、その筆致・書風から後奈良天皇の自筆疑いなきものである。料紙は、金銀泥を駆使、細緻な装飾下絵を描いた、すこぶる華麗なもの。その装飾技巧から、室町時代、16世紀初めのころのものと想定される。室町時代末期から桃山時代・江戸時代初期の宮廷においては、皇子には幼名として「―丸」「―麿」「―宮」の名乗りを命名する風習があった。また当時、皇子が7、8歳の年齢に達すると、読書始(入学の儀式)を行うのが常であった。後奈良天皇に、皇子・方仁親王(のちの正親町天皇〈おおぎまちてんのう・1517-93〉)が出誕したのは、永正14年〈1517〉5月29日。天皇は時に22歳であった。その方仁親王の読書始も、7歳から10歳前後のころであったろう。後奈良天皇(当時は知仁親王)は30歳前。ちなみに知仁親王は、大永6年〈1526〉4月29日、31歳で践祚して即位している。この懐紙の二首は、ともに『千載和歌集』(巻第二・春歌下、巻第十一・恋歌一)から引用した古歌である。「古哥丸」が後奈良天皇の幼名か否かは不明。あるいは実在の名前でなく、擬人名の可能性もある。つまりこの和歌懐紙は、正式な懐紙になぞらえて、皇子・方仁親王のために、のためにその書法を伝授しようとした御手本であったと推定できるものである。「二首の和歌を詠める/古哥丸/山花しら雪と嶺にはみえて桜ばなちればふもとの雪にぞありける/初恋なには江の藻にうづもるゝ玉がしは(柏)あらはれてだに人をこひばや」
詠二首和歌古哥丸山花しら雪と嶺にはみえて桜ばなちればふもとの雪にぞありける初恋なには江の藻にうづもるゝ玉がしはあらはれてだに人をこひばや
大きさからしても、かなり公的な二首歌会における懐紙のようであるものの、「山花」題は藤原伊通(1093–1165)の、「初恋」題は源俊頼(1055–1129)の『千載集』入集歌であり、架空の歌会の懐紙であると判る。仮名と思われる「古哥丸」に相応しい内容であると言えるが、仮名の懐紙には、飛鳥井雅有(1241–1301)筆とされる「和歌所別当柿下匡喬」名の先例がある。後奈良院(1497–1557)筆とされており、その名知仁の署名のある懐紙などと比較して、その真筆と断定できる。後柏原院流の祖とされる能筆の父、後柏原天皇(1464–1526)に良く似た、端正な筆跡である。皇子方仁(正親町天皇(1517–93))等が、幼童名で懐紙を書く際の手本とするために揮毫されたものであろうか。架空である分、書作品としての純度が高いとも言え、宸翰ならではの大らかさと清々しさが感じられるようである。懐紙にあるのは珍しい豪華な金銀泥の下絵は、江戸時代の後入れであると思われる。(佐々木)
文字景 —— センチュリー赤尾コレクションの名品にみる文と象」展(2021.4 慶應義塾ミュージアム・コモンズ)図録 掲載
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Two Waka Poems
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
- 材質・技法・形状
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材質 金銀泥下絵
- 付属品
- 外箱(桐箱)
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