烏丸光広筆書状

- 人物
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作者烏丸光広
- 年代
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制作年 AD17
- タイトル
- カラスマルミツヒロヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉は公卿・歌人。少年時代より能書の聞こえが高く、11歳で早くも右少弁に任ぜられた。正二位・権大納言。書は持明院流(じみょういんりゅう)に入門したが、のち光悦流の影響を受け、同時に上代様(じょうだいよう)も好んだ。「寛永の三筆」と併称される能書である。日付の「壬(閏)二月十五日」により、この手紙の書写年代は、慶長15年〈1610・光広32歳〉か寛永6年〈1629・同51歳〉のいずれかに限定される。宛名の「村上周防守」は、『寛政重修諸家譜』の索引に見えない。が、文中に登場する「堀久太郎」を探ると、堀秀政〈ほりひでまさ・1553-90〉・秀治〈ひではる・1576-1606〉父子が久太郎を名乗っている。2人ともに慶長15年以前に他界しているの該当しない。しかしながら、前掲『寛政重修諸家譜』の両者記述の中に、村上周防守義明の名が記されているではないか。ともに豊臣秀吉の小田原の役に参戦、功を収め越後国に領地が安堵されている。また、秀治の弟が村上周防守義明の養子にもなっており、堀家と村上家がきわめて親密な関係にあることを知る。とすると、文中「堀久太郎」は、久太郎を名乗ったという記載はないものの、秀治の嫡男忠俊〈ただとし・1596-1637〉が有力となる。たまたま、慶長15年閏2月2日、忠俊の家臣堀監物直次と丹後守直寄の兄弟に論争が勃発、駿府に訴えるまでに発展、ついに徳川家康が断を下し、直次が敗訴、罪に服したという。この事件が端緒で忠俊は所領を没収される。文中「久太郎殿……笑止之儀」とは、この一件を指すのではないか。村上周防守の身には類が及ばなかったことに、光広が安堵の旨を申し送ったものであろう。光広32歳の筆である。「便宜ながら一書啓せしめ候。堀久太郎殿申し下し御座候はば、笑止の儀に候。貴殿御無事の由、珍重に存じ候。如何様後便を期し申し入るべく候。恐々謹言。以上。壬(閏)二月十五日烏丸宰相光広村上周防守殿」
以上乍便宜一書令啓候堀久太郎殿申下御座候ハ笑止之儀候貴殿御無事之由珍重存候如何様期後便可申入候恐々謹言烏丸宰相壬二月十五日光広村上周防守殿
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Karasumaru Mitsuhiro
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1紙
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