木食応其筆書状

- 人物
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作者木食応其
- 年代
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制作年 AD16
- タイトル
- モクジキオウゴヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
木食応其〈もくじきおうご・1536-1608〉は、桃山時代の高野山の僧。はじめは近江佐々木氏の武士であったが、天正元年〈1573〉、38歳にして遁世。この時、十穀を絶つ木食の修行をし、木食上人と尊崇された。信長の侵攻を免れた高野山は、天正13年、根来寺を滅ぼした豊臣秀吉と相対することになった。この時、高野山を代表する使節として交渉にあたって高野山を救ったのがこの応其であった。以後、秀吉の篤い帰依をうけて、高野山の再興の中心となり、興山(こうざん)上人と呼ばれた。その後、応其は、秀吉の命により各地に数多くの寺塔を造営した。その数97箇所であったという。なかでも天正14年に秀吉が創建した京都・東山の方広寺(ほうこうじ)大仏殿が有名。ゆえに、大仏上人の名で親しまれた。晩年は、高野山を退き、近江甲賀郡の飯道寺に隠遁、同地で示寂。73歳であった。この書状は、東山の方広寺大仏殿の開眼供養にともなう舞楽について申し送ったもの。文禄5年〈1596〉閏7月12日、京都は大地震に見舞われ、方広寺の大仏釈迦如来が無惨にも破壊してしまった。その代替として信濃善光寺の阿弥陀如来を遷座することによって開眼供養が行われた。慶長3年〈1598〉8月22日がその当日。この法要のすべての運営の中心となったのが、大仏上人こと応其であった。その法要にともなう舞楽の準備を促したのがこの書状である。宛名の「多上野介」は、朝廷楽所の多忠雄〈おおのただかつ・?-1601〉である。宮廷(京都方)および天王寺方・興福寺(南都方)の楽人の招集を依頼している。書状発信の4日前は、後陽成天皇の父・陽光院の十三回忌にあたり、宮中では法華八講が行われており、そのためにちょうど楽人たちは在洛中で、その連絡にはきわめてこう好都合であった、という次第。時に応其63歳。肉太の筆線を堂々とエネルギッシュに運ぶ。全てを取り仕切る奉行としての自信溢れる姿が彷彿とさせる筆致である。「大仏殿供養の儀、八月二十二日に執行致すべきの由、太閤様仰せ出だされ候条、舞楽これ在るべくの御法事に候間、京都・南都・天王寺、何れも、三箇所へ相催され、余日無き事に候。早々、御用意肝要に候。委しき様子は、薮殿より仰せ渡さるべく候えども、先ず内証従り申し遣わし候。恐々謹言。/猶々、三箇所へ別紙を以って申すべく候えども、今度の禁中の御八講、幸い皆々上洛の由に候間、何方へも相催され候て給うべく候。以上。大仏木食興山上人/七月二十八日応其/多上野介殿御宿所」
猶々三ケ所ヘ以別帋可申候ヘ共今度 禁中御八講幸皆々上洛之由候間大仏殿供養儀何方へも被相催候て可給候以上八月廿二日ニ可致執行由太閤様被仰出候条舞楽可在之御法事ニ候間京都南都天王寺何茂三箇所江被相催無余日事候早々御用意肝要候委様子者薮殿より可被仰渡候へ共先従内證申遣候恐々謹言大仏木食興山上人七月廿八日応其(花押)多上野介殿御宿所
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Mokujiki Ohgo
物理的特性
- 重量と数量
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員数 1幅
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