佐久間正勝筆書状
- 人物
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作者佐久間正勝(不干斎)
- 年代
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制作年 AD16
- タイトル
- サクママサカツヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
佐久間正勝〈さくままさかつ・1556-1631〉は、桃山時代~江戸前期の武将・茶人。佐久間信盛〈のぶもり・1527-81〉の子で、初名信栄、のちに不干斎(ふかんさい)・宗岩・宗透(そうとう)・松泉庵などを号した。父とともに織田信長〈おだのぶなが・1534-82〉に仕え数々の戦功を挙げた。が、天正8年〈1580〉、高野山に逃れた。理由は、明智光秀〈あけちみつひで・?-1582〉の讒言、あるいは茶事に耽っての軍務怠慢によるともいわれる。その後赦されて織田信雄〈のぶかつ・1558-1630〉に属した。天正12年〈1584〉の小牧・長久手の合戦では豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉軍に対抗して活躍。しかしながら、秀吉が信雄と和睦するに際して、正勝自刃がその条件の一項に加えられていた。そこで正勝は、二心無きことを証明せんとして剃髪出家して、不干斎と号し、三河国笹原に隠れた。その後赦しあって、秀吉の御伽衆として出仕している。また、このころ茶人としても活躍した様子で、津田宗及〈つだそうぎゅう・?-1591〉の日記『天王寺屋会記』などには、不干斎の催した茶会記事が散見される。晩年は、徳川秀忠の近くに侍り、幕府に仕え、武蔵国児玉・横見郡に三千石を領した。この書状は、文中に「発心候事」とあることにより、正勝が出家した時のものと知る。すなわち、天正12年〈1584〉のこと。豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が、尾張国小牧・長久手および伊勢国内での合戦に明け暮れていた。この合戦は、この年の8月7日の秀吉と信雄・家康との間で成立した和議をもって終焉を迎えていた。この和議に絡んで正勝は出家して不干斎を号するのである。この前後、家康と気脈を通じていた越中の内蔵助佐々成政〈さっさなりまさ・1539-88〉は、能登の前田又左衛門利家〈まえだとしいえ・1562-1614〉への侵攻を画策していた。文中の「佐々蔵助対前又左人数出候」がこのことを示している。すなわち、この手紙は、天正12年〈1584〉8月9日のものである。時に正勝29歳であった。正勝がこれを報じた相手は、「滝彦左(衛門尉)」こと、滝川一益〈たきがわかずます・1525-86〉である。一益は、当時、伊勢長島城主にあったが、これより先、天正11年8月には秀吉に降り、この合戦では秀吉に従っていた。なお、「三九郎事」とは、滝川一益の長子・一忠(かずただ・通称三九郎)のことと思われる。いずれにしても、小牧・長久手の合戦を舞台に織りなす人間模様を垣間見る興味深い内容である。「御折紙、其の意を得候。御無事に相調い候由、近比珍重に候。又、三九郎事、承らず候。然れども、発心候事、何方へも相構えず候条、罷り出も知らず候。然れども御聞き届けこれ無き事、以後は無用に候哉。佐々蔵助(内蔵助成政)、前又左(前田又左衛門利家)に対し人数出だし候由に候。返すがえす、御無事目出候。恐々謹言。九日入道不干/滝彦左(滝川一益)殿廻章」
[上段]御折帋得其意候 御無事相調候由近比珍重候又三九郎事不承候 然共発心候事何方へも不相構候 条罷出も不知候 然とも御聞届無之事以後ハ無用候哉佐々蔵助対前又左人数出候由候返々御[下段]無事目出候恐々謹言入道九日不干(花押)瀧彦左殿廻章
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Sakuma Masakatsu
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
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