豊臣秀吉筆書状

- 人物
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作者豊臣秀吉
- 年代
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制作年 AD16
- タイトル
- トヨトミヒデヨシヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1537-98〉は、桃山時代の武将。尾張国中村の出自で、はじめ木下藤吉郎を名乗る。織田信長〈おだのぶなが・1534-82〉に仕え、戦功を重ねるにつれて次第に重用され、羽柴姓を称した。天正元年〈1573〉、浅野氏滅亡後、その旧領を与えられ、翌年には近江長浜城主となり筑後守に任ぜられた。備中高松城包囲中に本能寺の変が起こる。急遽、毛利氏と和議を結び、引き返して山崎の合戦で宿敵明智光秀を破る。信長の後継をめぐって対立した織田信孝・柴田勝家を滅ぼし、大坂城を築城。その後、小牧長久手の戦、九州征伐、四国征伐、さらには、天正18年の小田原北条氏制圧、奥羽を平定するに至って、ついに天下統一を成し遂げた。この間、関白(天正13年〈1585〉)、太政大臣(天正14年〈1586〉)に任ぜられ、位人臣を極めた。その後、天正19年〈1591〉関白を秀次〈ひでつぐ・1568-95〉に譲り、自らは太閤を号した。文禄元年〈1592〉・慶長元年〈1596〉の2度にわたる朝鮮出兵、明国侵攻の企ても失敗に終わり、慶長3年8月18日伏見城にて死去。まさに破天荒の生涯であった。ところで、天正11年〈1583〉4月21日、豊臣秀吉は柴田勝家の将・佐久間盛政を近江国賤ケ嶽(しずがたけ)に撃ち破った。勝家はこれに抗すべくもなく、逃れて越前国北荘(きたのしょう)の自城に走った。同23日、秀吉は追って進攻、勝家の北荘の城を包囲、翌24日、勝家は城に火を放って、室・お市(織田信長妹)ともども自刃して果てた。この手紙は、その後のもの。日付に「十一日」とあるので、5月11日のものと判明。文面よると、秀吉は、打ち続く転戦により疲労困憊、日焼けで色は濃く、痩せ衰え、眼精疲労をもおこしていた様子である。正室於祢(おね)より、たびたび陣中見舞いの便りをもらったことへの感謝の意を込める。本来は「五文字」(正室=於祢)に直に宛てるべきを、眼の調子悪く、侍女のいわに宛てて送ったものである。翌天正10年6月、主君織田信長没後、仇敵明智光秀を討ち、文字どおり天下人となっている。自負を込めての「天下」の署名であろう。決して能筆とはいいがたいが、堂々とした筆致に、まさしく天下人の風格がうかがえるではないか。「両度の文、見参らせ候。早々、越中隙明き候間、飛騨の国へ人数遣はせ、成敗申し付け候。又、越前の国の置目、申し付け候はん為に、昨日十日に北荘迄【一部欠落】申し付け、やがて此の二十七、八日ころには凱陣致し申すべく存ずる間、御心易く候べく候。かしく。/返すがえす、次いで国々の儀、かたく申し付け候て、後々まで、武士起こりのせざるよう、申し付け候はんと存じ候。骨を折り申すに依て、色黒く、痩せ、眼も少し悪く候。五文字(正室・於祢)へ返事申すべく候へども、眼悪しく候間、御心得候べく候。十一日/北荘より天下/いわ返事」
返々ついてくに/\のきかたく両度の文申つけ候てのみまいらせ候はやち/\まてふしゑ中ひまあきおこりのせさるよう候間ひたのくに申つけ候ハんと存候ゑ人数つかわせほねをおり申ニせいはい申つけよていろくろく候又ゑちせんのやせめもすこしくにのおきめわるく候五もしへ申つけ候ハんた返事可申候へともめに昨日十日ニめあしく候間御心へ候へく候きたのせうまて【一部欠落】申つけやかて此廿七八日ころニわかいちんいたし可申存候間御心やすく候へく候かしく十一日 きたのせうよりいわ天下返事
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Toyotomi Hideyoshi
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
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