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江月宗玩筆消息

Keio Object Hub
人物
年代
制作年 AD17
タイトル
コウゲツソウガンヒツショウソク
コレクション
所管
斯道文庫 キャンパス 三田
資料番号
AW-CEN-001545-0000
ライセンス
CC BY 画像ライセンス
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

URL
基本分類
美術
AIタグ
手書き フォント 矩形 アート 書き込み

江月宗玩〈こうげつそうがん・1574-1643〉は、堺の町衆の出自である。千利休〈せんのりきゅう・1522-91〉・今井宗久〈いまいそうきゅう・1520-93〉と並ぶ当代随一の大茶人、天王寺屋津田宗及〈つだそうぎゅう・?-1591〉の第二子。欠伸子(けんしんし)懵赫々子(かくかくし)などと号した。6歳で堺の南宗寺(なんしゅうじ)で得度、のち大徳寺の春屋宗園〈しゅんおくそうえん・1529-1611〉に参じ、その法嗣となる。慶長15年〈1610〉大徳寺第157世の住持となる。同17年〈1612〉、春屋の死をうけて竜光院の第2世を継いだ。このほか、寺内に看松庵(かんしょうあん)・寸松庵(すんしょうあん)・孤篷庵(こほうあん)・正宗庵(せいそうあん)・済北庵(せいほくあん)・東漸庵(とうぜんあん)の塔頭を開いている。早くから、後水尾天皇・近衛信尋・高松宮好仁親王・烏丸光広らの帰依を受け、また、黒田長政・小堀遠州・佐久間実勝らの武将にも厚遇された。書画を能くし、特に松花堂昭乗とはことに昵懇の間柄で、昭乗の絵にその賛を加えた画賛が多く伝存している。文中「清泉寺」は、もともとは、文明13年〈1481〉の秋、春浦宗熙〈しゅんぽそうき・1409-96〉が伏見の地に建立した寺であるが、慶長5年〈1600〉大徳寺山内方丈の北に移築された。千宗旦〈せんのそうたん・1578-1658〉の書状には、しばしば「清泉寺璠和尚」と登場する。とすると、この「清泉寺」は、玉舟宗璠〈ぎょくしゅうそうばん・1600-68〉のことであろう。玉舟は玉室宗珀〈ぎょくしつそうはく・1572-1641〉の法嗣(弟子)。玉室は、寛永13 年〈1636〉の大徳寺開山三百年遠忌の厳修に尽力、同寺伽藍の寛永大復興に努めたことで知られる。「堂中調置候」は、このとき竜光院の伽藍整備が調ったことをいうのではなかろうか。たびたび書状を頂戴しながら面談かなわなかった相手「又閑斎主(ゆうかんさいしゅ・未詳)」に、茶会開催の日程を来月に延引する旨を申し送る。茶の湯を通じての親交の人物と想定される。衒いのない、自由奔放の筆致は、禅で培われた江月独特の書境といえよう。「内々便宜有るべきの旨、清泉寺参り候いつる間、此くの如くに堂中調え置き候処、重ねての芳札(お手紙)過当に候。先日は、向顔能わず、返すがえすも御残り多く候。御茶の儀、当月中は、爰元、各隙無き候の処、来月辺り緩々、尤もに候。少々我等も申し入れ度く候。委細、清泉寺従り申さるべく候。恐々不備。三月十九日竜光院又閑斎主回答」

内々便宜可有之旨清泉寺参候ツル間如此ニ堂中調置候処重而芳札過当ニ候先日ハ不能向顔返々御残多候御茶之儀当月中ハ爰元各無隙候処来月辺緩々尤ニ候少々我等も申入度候委細従清泉寺可被申候恐々不備竜光院三月十九日 (花押)又閑斎主 回答

ライセンスなど

資料番号
AW-CEN-001545-0000
ライセンス
CC BY
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

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所管
斯道文庫
キャンパス 三田
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美術

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オブジェクトの詳細

識別情報

タイトル(英題)
Letter by Kogetsu Sogan

物理的特性

重量と数量
員数 1幅

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タイトル(英題)
Letter by Kogetsu Sogan

物理的特性

重量と数量
員数 1幅