Object

伊達政宗筆書状

Keio Object Hub
人物
年代
制作年 AD17
タイトル
ダテマサムネヒツショジョウ
コレクション
所管
斯道文庫 キャンパス 三田
資料番号
AW-CEN-000205-0000
ライセンス
CC BY 画像ライセンス
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

URL
基本分類
美術
AIタグ
手書き フォント 矩形 論文 紙製品

伊達政宗〈だてまさむね・1567-1636〉は、桃山から江戸初期にかけての武将。輝宗〈てるむね・1544-85〉の長男として出羽国(山形県)米沢に生まれる。幼名梵天丸(ぼんてんまる)、天正5年〈1577〉元服後、藤次郎政宗と改めた。幼時に右眼を失明したことから「独眼竜」の異名をとった。18歳の時に家督を継ぐ。米沢を拠点に勢力を拡大、天正17年〈1589〉、宿敵・蘆名義広を破って、会津黒川城(のちの若松城)に移った。が、翌年、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉に会津・岩瀬・安積の領地を没収され、みずからは米沢城に戻った。同19年、奥州葛西・大崎の一揆を平定して岩出山城を与えられた。文禄元年〈1592〉の朝鮮の役には肥前(佐賀県)名護屋の本陣に赴き、のち渡海、帰朝後、豊臣秀次〈ひでつぐ・1568-95〉の謀反に連座して蟄居を命じられるも、ほどなく許され、関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、会津の上杉景勝〈うえすぎかげかつ・1555-1623〉を破る。慶長8年〈1603〉には仙台に築城、移封。仙台藩62万石の基盤を築いた。寛永13年、江戸桜田邸で没した。時に70歳。豪放磊落、すぐれた武将であったと同時に、文雅を好み、和歌をよくし、茶道・能楽にも通じた風流人でもあった。奥州仙台の地に絢爛たる桃山文化をもたらした功績は多大である。また、支倉常長〈はせくらつねなが・1571-1622〉をローマへ派遣するなど、海外にも遠大な夢を抱いた進歩的な武将でもあった。この書状の宛名「永信州様」は、永井信濃守尚政〈ながいなおまさ・1587-1668〉で、下総(茨城県)古河(こが)城主。政宗は鷹狩の雁二羽を贈られたことに対し礼を述べ、それを将軍徳川秀忠〈とくがわひでただ・1579-1632〉の饗膳に供すべき旨を伝えている。また、永井信濃守の斡旋により、政宗御抱えの能楽者(「我等太夫」とは、桜井八右衛門安澄のこと。『貞山公治家記録』巻三四)が三番の演能を下命されたことにつき、謝辞を述べたもの。『貞山公治家記録』によって、これが、寛永5年〈1628〉3月12日、将軍秀忠が江戸の政宗邸への御成りに際して興行された時のものであることがわかる。よってこの手紙の執筆は政宗62歳の時であった。相手の信濃守は42歳。70歳で死去する政宗としては晩年の筆。いささかも老いを感じさせない闊達な筆致である。 「鷹の雁二(羽)、贈り預り忝く存じ候。明日の御膳に上げ申すべく候。夜前は、御能組、御越し候。我等が太夫に三番迄、仰せ付けらるるの由、扨々、辱き義に御座候。御取成し故に候。後刻、西の丸にて、御礼申すべく候。恐惶謹言。万々、辱く候。辱く候。以上。三月十一日。正宗/永(井)信州様御報松(平)陸奥守正宗」

萬々辱候/\以上鷹之雁ニ贈預忝存候明日之御膳に上可申候夜前者御能組御越候我等太夫ニ三番迄被仰付由扨々辱義ニ御坐候御取成故ニ候後刻西丸ニ而御礼可申候恐惶謹言三月十一日正宗(花押)松陸奥守永信州様御報正宗

ライセンスなど

資料番号
AW-CEN-000205-0000
ライセンス
CC BY
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

画像
ライセンス

所管・分類など

所管
斯道文庫
キャンパス 三田
URL
基本分類
美術

グループのオブジェクト

OPEN DATADESIGN

Keio Object Hub では、データのオープン化を進めるだけではなく、オープン・データを活用してどのような体験がデザインできるか、さまざまな試みを行っています。

オブジェクトの詳細

識別情報

タイトル(英題)
Letter by Date Masamune

物理的特性

重量と数量
員数 1幅

識別情報

タイトル(英題)
Letter by Date Masamune

物理的特性

重量と数量
員数 1幅