曲直瀬玄朔筆書状

- 人物
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作者曲直瀬玄朔
- 年代
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制作年 AD17
- タイトル
- マナセゲンサクヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
曲直瀬玄朔〈まなせげんさく・1549-1631〉は桃山時代の医者。諱は、初め玄朔、のち正紹(まさつぐ)と改めた。医師道三(どうさん)の養子。道三の子守貞(もりさだ)が早世したため、妹の子である玄朔を養嗣子に迎えた。京都の上京(かみぎょう)に生まれ、道三の称を襲いだ。天正10年〈1582〉法眼に叙せられ、翌11年、正親町天皇〈おおぎまちてんのう・1517-93〉の病気を診察した。その平癒の功により、同14年12月に法印に進み、延命院の院号を賜い、のちに延寿院に改めた。『醫方明鑑(いほうめいかん)』『延寿撮要(えんじゅさつよう)』など、多くの医学書を著している。この手紙の宛名に「了安(庵)老」とあるのは、江戸初期の出版者、五十川春昌〈いそがわはるまさ・1574-1661〉のこと。法名を了庵(りょうあん)と号した。京都において医術を学び、慶長6年〈1601〉、細川興元(ほそかわおきもと)に従い豊前国(福岡県)の小倉に下向。明年、『太平記』を刊行して評判となり、徳川家康に命ぜられて『東鑑(あずまかがみ)』を上梓した。また、家康の下命により、信州川中島の松平忠輝(まつだいらただてる・家康子)に近侍した。その医名は広く知られ、遠近を問わず医術をほどこした。『薬石要録(やくせきようろく)』・『針灸要略(しんきゅうようりゃく)』などの著書をのこした。これは伝存稀有な曲直瀬玄朔の自筆書状で、文面によれば、桃山~江戸時代初期に芸州(安芸国=広島県)の武将で右近衛少将(慶長7年〈1602〉3月任右近衛少将、元和3年〈1617〉6月任参議)を務めた福島正則〈ふくしままさのり・1561-1624〉の病気診察のため上洛(正則在洛中の発病か)した了庵が、使者に託して玄朔に塩漬雁一羽を贈ったこと、そして急ぎ芸州下向のため面会不能を告げたのに対する礼手紙である。また、玄朔は了庵の名古屋転居に、見舞いの心遣いも述べている。変転自転、偏癖の著しい書体ながら、手馴れた個性味に富む筆跡である。「少将殿の御煩い、御見廻と為て、御上洛候処に、御下向候に付きて、直ちに芸州へ御下向有るべきの由、扨々(さてさて)、御苦労察し奉り候。仍って、塩雁一(羽)贈り給わり候。遠路、御懇志の至りに候。名固屋へ家、御引き候や。一世の御苦煩と存じ候処、又此の如き旅行、身心の労苦、御煩い候はんかと笑止に存じ候。頓而(やがて)、御上洛待ち申し候。恐惶謹言。五月六日玄朔(花押)/延寿院了安老玄朔/回章」
少将殿御煩為御見廻御上洛候處ニ御下向に付而直ニ芸州へ可有御下向由扨々御苦労奉察候仍塩鳫一贈給候遠路御懇志至候名固屋へ家御引候哉一世之御労煩と存候処又如此旅行身心之労苦御煩候ハんかと笑止ニ存候頓而御上洛待申候恐惶謹言五月六日玄朔(花押)延寿院[封]了安老玄朔回章
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Manase Gensaku
物理的特性
- 重量と数量
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員数 1幅
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