毛利元就筆書状
- 人物
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作者毛利元就
- 年代
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制作年 AD16
- タイトル
- モウリモトナリヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
毛利元就〈もうりもとなり・1497-1571〉は、安芸国吉田庄の地頭、郡山城主。初め大内義隆〈おおうちよしたか・1507-51〉に属し、天文9年〈1540〉尼子晴久〈あまこはるひさ・1514-61〉を郡山城に破る。義隆滅亡後、弘治元年〈1555〉11月、陶晴賢を厳島に破り、同3年大内義長を倒して周防・長門を平定。ついで備後・備中・石見の諸国を平定。永禄9年〈1566〉、出雲富田城に尼子氏を滅ぼし、10ヶ国を領有するに至った。この手紙の宛名に「治部少輔殿」とあるのは、元就の二男吉川元春〈きっかわもとはる・1530-86〉のこと。天文16年〈1547〉吉川興経〈おきつね・1508-50〉の養子となり、同19年吉川家当主となっている。元春が父元就に引見方を申し送った中原某(局務大外記・中原師象か)に対面したことを返報したもの。対面した元就が、この中原某の出処進退については、山弥(家臣・山県弥三郎か)が詳しく報告するであろう、と返答している。戦国武将としては稀有な文雅の道をきわめた元就は、書においてもひとかどの能書ぶりを発揮していた。元就が、右馬頭に任じた天文2年(〈1533〉・37歳)から永禄2年(〈1559〉・63歳)の間、元春が親しく元就に仕えた天文期頃と推定される。「中原来り候。対面候。彼の者の進退の事、山弥にて委細申すべく候、申すべく候。恐々謹言。九月二十三日元就/治部少輔殿返報右馬(頭)元就」
中原来候対面候彼者進退之事山弥ニて委細可申候/\恐々謹言九月廿三日元就(花押)[封]右馬治部少輔殿返報元就
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Mouri Motonari
物理的特性
- 重量と数量
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員数 1幅
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