毛利秀就筆消息

- 人物
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作者毛利秀就
- 年代
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制作年 AD17
- タイトル
- モウリヒデナリヒツショウソク
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
毛利秀就〈もうりひでなり・1595-1651〉は、江戸時代前期の長門国長州(萩)藩主。毛利輝元〈てるもと・1553-1625〉の長男。安芸国広島城に生まれる。幼名は松寿丸。慶長4年〈1599〉、豊臣秀頼〈とよとみひでより・1593-1615〉より秀の一字を拝領して、藤七郎秀就と称した(5歳)。翌年〈1600〉、関ヶ原の戦い。豊臣家五大老の一人であった父・輝元は、西軍の総帥とみなされ、戦後、安芸国ほかの西国百十二万石から、周防・長門の二国三十六万石余と、三分の一に領地を削られる。輝元は謹慎の表明として剃髪し、隠居したため、家督を相続したのが、6歳の秀就であった。もっともこれは単に形式上のことであって、実際には引き続き輝元が藩主として君臨する。秀就は江戸へ下向(都から地方へ行くこと)した。同13年〈1608〉7月、徳川家康の二男・結城秀康〈ゆうきひでやす・1574-1607〉の娘と結婚。9月に松平の称号を与えられ、長門守に任ぜられた(14歳)。慶安3年〈1650〉には防長両国のうち支藩を除く全領内を区画し、地方行政の基礎を築く。上下2段に分かれているこの消息は、もとは折紙消息であった。堅紙(1枚を広げた紙)を半分に折り、折り目を下にして手紙を書き始め、表が終わると折り目を下にしたまま裏返して書き続ける、という手紙の一形式。これを広げると下半分は文字が反転するため、通常、これを半分に切断し、天地をそろえて表装することが多い。幼い筆致の文字が連なるこの消息の差出人は「長門守秀就」。秀就が長門守に就いたのは慶長13年〈1608〉、14歳の時。とすると、この消息は、秀就14~15歳ころの筆ということになろうか。手馴れぬ稚拙の筆致ながら気宇雄大、大名としての天賦の才がただよう。「文披見申しまいらせ候。今日三田尻(山口県防府市)へ着き申し候、其元(萩市)へは十三日に着き申すべく候間、その心得あるべく候。我等事、気分よく候間、心安かるべく候。早々申し越され、満足申し候。尚、重ねて申しまいらせ候。めでたく、又々、かしく。又々、かしく。三月五日長門秀就(花押)屋敷へ参る御報」
[上段]又々 かしく 文ひけん申 まいらせ候今日三田尻へつき申候そ こ元ヘハ十三日ニ つき可申候 間その心得あるへく候 われら事き ふんよく候間心安かるへく候 [下段]さう/\申こされまんそく申候なをかさねて申まいらせ候めてたく又々かしくなかと三月五日ひて就(花押)やしきへまいる御報
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Mouri Hidenari
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
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