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佐久間正勝筆書状

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人物
年代
制作年 AD17
タイトル
サクママサカツヒツショジョウ
コレクション
所管
斯道文庫 キャンパス 三田
資料番号
AW-CEN-001367-0000
ライセンス
CC BY 画像ライセンス
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

URL
基本分類
美術
AIタグ
手書き フォント モノクロ アート モノクロ写真

佐久間正勝〈さくままさかつ・1556-1631〉は、桃山時代~江戸前期の武将・茶人。佐久間信盛〈のぶもり・1527-81〉の子で、初名信栄、のちに不干斎(ふかんさい)・宗岩・宗透(そうとう)・松泉庵などを号した。父とともに織田信長〈おだのぶなが・1534-82〉に仕え数々の戦功を挙げた。が、天正8年〈1580〉、高野山に逃れた。理由は、明智光秀〈あけちみつひで・?-1582〉の讒言、あるいは茶事に耽っての軍務怠慢によるともいわれる。その後赦されて織田信雄〈のぶかつ・1558-1630〉に属した。天正12年〈1584〉の小牧・長久手の合戦では豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉軍に対抗して活躍。しかしながら、秀吉が信雄と和睦するに際して、正勝自刃がその条件の一項に加えられていた。そこで正勝は、二心無きことを証明せんとして剃髪出家して、不干斎と号し、三河国笹原に隠れた。その後赦しあって、秀吉の御伽衆として出仕している。また、このころ茶人としても活躍した様子で、津田宗及〈つだそうぎゅう・?-1591〉の日記『天王寺屋会記』などには、不干斎の催した茶会記事が散見される。晩年は、徳川秀忠〈とくがわひでただ・1579-1632〉の近くに侍り、幕府に仕え、武蔵国児玉・横見郡に三千石を領した。これは、徳川秀忠に御徒(おかち・将軍や大名の行列の先頭に立って、道中の警戒をしたり、城内にあっては番所に詰めて警固に当たった侍)に召しかかえられ、のち御太鼓役(おたいこやく・若年寄の下、目付の支配下にあって、陣太鼓を打つことを職とする)となった吉田直正(十兵衛)に宛てた返書。岡本五郎左衛門(そのころ同じく御徒をつとめた岡本正方か)を伴っての、せっかくの来訪ながら、持病発作のため会えなかった非礼を詫びている。いずれ快方の暁には、こちらから知らせるので、五郎左衛門ともどもの来訪を申し入れている。いかにも病中を思わせる筆致である。前者と同じく晩年の筆にちがいない。「大坂従り返事持たせ給い、請け取り申し候。彼方より態と飛脚到来の由に候間、重ねて状を以って申し候。御届け頼み入り候。又、先日は岡本五郎左(衛門)御同道の処、折節、持病指し発り、面謁能わず候事、残り多き仕合に候。今日に至り本覆(復)なく、平臥に候。尚、快気を得候はば、是れ従り申し入るべく候間、五郎左御同道あるべく候。恐々謹言。以上。九(月)二十七日 宗(花押)/吉田拾(十)兵衛殿御返報不干斎」

以上従大坂返事持せ給請取申候彼方より態飛脚到来之由候間重而状を以申候御届頼入候又先日者岡本五郎左御同道之処折節持病指発不能面謁候事残多仕合ニ候至今日無本覆平臥ニ候尚得快気候者従是可申入候間五郎左可有御同道候恐々謹言九廿七日 宗(花押)吉田拾兵衛殿不干斎 御返報

ライセンスなど

資料番号
AW-CEN-001367-0000
ライセンス
CC BY
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

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所管
斯道文庫
キャンパス 三田
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基本分類
美術

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オブジェクトの詳細

識別情報

タイトル(英題)
Letter by Sakuma Masakatsu

物理的特性

重量と数量
員数 1幅

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タイトル(英題)
Letter by Sakuma Masakatsu

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員数 1幅