足利基氏(右筆)御教書

- 人物
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作者足利基氏(右筆)
- 年代
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制作年 AD14
- タイトル
- アシカガモトウジ(ユウヒツ)ミギョウショ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
足利基氏〈あしかがもとうじ・1340-67〉は、南北朝時代の武将。足利尊氏〈あしかがたかうじ・1305-58〉の四男である。貞和5年〈1349〉9月、尊氏は弟直義〈ただよし・1306-52〉を政務の座から下し、嫡子義詮〈よしあきら・1330-67〉を鎌倉から呼び寄せて直義に代え、当時10歳の基氏を義詮に代わる鎌倉の主と定めて鎌倉に送った。初代の鎌倉公方である。この時、基氏は直義の養子なって、重臣上杉憲顕〈うえすぎのりあき・1306-68〉、高師冬〈こうのもろふゆ・?-1351〉に補佐されていた。観応元年、京都において尊氏と直義が対立するに及び、「観応擾乱(かんのうのじょうらん)」となるが、この時基氏は尊氏との衝突を避けて安房国に隠住。文和元年〈1352〉正月、尊氏が直義と一時和睦して鎌倉に入ると、基氏も安房から呼び戻され、同年2月25日元服の儀を行った(13歳)。しかし、翌日直義が毒殺される。その後、基氏は尊氏と行動をともにする。武蔵入間川の陣中に在って、南朝方の新田義興〈にったよしおき・1331-58〉を謀殺して、鎌倉に帰った。そして、康安元年〈1361〉には畠山国清〈はたけやまくにきよ・?-1362〉を伊豆に討ち、関東から追放。以後は、上杉憲顕を管領とし、鎌倉府管轄10か国の守護体制の確立や禅教諸刹の統制を図るなど、室町幕府の関東における地歩を固めるのに尽力した。が、貞治6年〈1367〉4月、流行病にかかり、28歳の若さで死去した。この御教書は、観応2年〈1351〉正月5日、尊氏の監督の下、基氏の「判始(はんはじめ)」(将軍の代替、就任後はじめて吉書に御判[花押]を書く儀式)が行われた際、その祝賀の挨拶にいち早く馳せ参じた佐竹弥次郎(伝不詳)に褒詞を与えた文書である。佐竹氏は、常陸国に勢力をもつ豪族。鎌倉幕府滅亡後、とくに佐竹貞義〈さたけさだよし・1287-1352〉・義篤〈よしあつ・1311-62〉父子は足利尊氏に密着、各地で戦功を立て、勲功として尊氏から常陸守護職を与えられていた。儀式の3日後、その佐竹一族の中、いの一番に駆けつけたのが佐竹弥次郎であった。その忠勤の行動を褒めたたえ、以後の更なる忠節を誓わせたのである。当時の慣例によって、本文は右筆の筆。花押のみが基氏の自筆である。時に基氏12歳であった。「常州に於いて、一族中を離れ、最前(いちはやく)、御方に馳せ参ずるの条、尤も神妙(感心する)なり。弥、忠節を抽きんずべくの状、件の如し。観応二年正月八日基氏(花押)/佐竹弥次郎殿」
於常州離一族中最前馳参御方之条尤神妙也弥可抽忠節之状如件観応二年正月八日(花押)佐竹弥次郎殿
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- Letter (Migyosho) by Scribe to Ashikaga Motouji
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- 重量と数量
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員数 1幅
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