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豊臣秀吉(右筆)書状

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人物
年代
制作年 AD16
タイトル
トヨトミヒデヨシ(ユウヒツ)ショジョウ
材質・技法・形状
紙本墨書
コレクション
所管
斯道文庫 キャンパス 三田
資料番号
AW-CEN-001075-0000
ライセンス
CC BY 画像ライセンス
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

URL
基本分類
美術
AIタグ
フォント ジェスチャー アート 手書き パターン

豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉は、桃山時代の武将。尾張国中村の出自で、はじめ木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)を名乗る。織田信長〈おだのぶなが・1534-82〉に仕え、戦功を重ねるにつれて次第に重用され、羽柴姓を称した。天正元年〈1573〉、浅野氏滅亡後にその旧領を与えられ、翌年には近江長浜城主となり筑後守に任ぜられた。備中高松城包囲中に本能寺の変が起こる。急遽、毛利氏と和議を結び、引き返して山崎の合戦で宿敵明智光秀〈あけちみつひで・?-1582〉を破る。信長の後継をめぐって対立した織田信孝〈おだのぶたか・1558-83〉・柴田勝家〈しばたかついえ・1522-83〉を滅ぼし、大坂城を築城。その後、小牧長久手の戦、九州征伐、四国征伐、さらには、天正18年の小田原北条氏制圧、奥羽を平定するに至って、ついに天下統一を成し遂げた。この間、関白(天正13年〈1585〉)、太政大臣(天正14年〈1586〉)に任ぜられ、位人臣を極めた。その後、天正19年〈1591〉関白を秀次〈ひでつぐ・1568-95〉に譲り、自らは太閤を号した。文禄元年〈1592〉・慶長元年〈1596〉の二度にわたる朝鮮出兵、明国侵攻の企ても失敗に終わり、慶長3年〈1598〉8月18日伏見城にて死去。まさに破天荒の生涯であった。これは秀吉の書状であるが、文面は秀吉の右筆(主人にかわって文書を代筆する役)楠長諳〈くすのきちょうあん・1520-96〉の手に成るものである。本文中、「今度の行幸」とは、天正16年〈1588〉4月14日に行なわれた後陽成天皇〈ごようぜいてんのう・1571-1617〉の「聚楽第(じゅらくだい)行幸」のこと。聚楽第は秀吉が京都に造営した城郭風の邸宅で、巨石で石垣を築いた壮大な豪邸であった。秀吉はそこに後陽成天皇(このとき18歳)の行幸を仰ぎ、自らの権勢を天下に誇示した。さて、その行幸もすべてが滞りなく行なわれ、秀吉は安堵と喜びと感謝の意を和歌3首に詠じた。和歌は3枚の短冊に清書され、禁裏ならびに正親町院御所に進上。この一幅はその際の添状である。宛名は3人の連名で、従一位右大臣・菊亭(今出川)晴季〈きくていはるすえ・1539-1617〉、正二位権大納言・勧修寺晴豊〈かじゅうじはれとよ・1544-1603〉、同・中山親綱〈なかやまちかつな・1544-98〉と、いずれも後陽成天皇の側近。当行幸の奉行人である。ただちに天皇・正親町上皇(おおぎまちじょうこう・1517-93。このとき72歳)に進覧されたことはいうまでもない。「今度の行幸、忝き次第、即ち、内に参らしめ、申し上ぐべく候と雖も、先ず祝詞と為て、此の三首、進上候。宜しく御披露有るべく候。仙洞へも御目に懸けられ、然るべく候はば、取り成し専一に候也。謹言。四月二十日(花押)菊亭殿勧修寺殿中山殿」

今度行幸忝次第即令参内雖可申上候先為祝詞此三首進上候宜有御披露候仙洞へも被懸御目可然候者取成専一候也謹言四月廿日(花押)菊亭殿勧修寺殿中山殿

ライセンスなど

資料番号
AW-CEN-001075-0000
ライセンス
CC BY
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

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ライセンス

所管・分類など

所管
斯道文庫
キャンパス 三田
URL
基本分類
美術

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オブジェクトの詳細

識別情報

タイトル(英題)
Letter by Toyotomi Hideyoshi’s Secretary

物理的特性

重量と数量
員数 1幅
付属品
外箱(二重箱)、巻止め、借用願1通、借用證1通、礼状1通

識別情報

タイトル(英題)
Letter by Toyotomi Hideyoshi’s Secretary

物理的特性

重量と数量
員数 1幅
付属品
外箱(二重箱)、巻止め、借用願1通、借用證1通、礼状1通