北野天神縁起絵巻断簡

醍醐天皇〈だいごてんのう・885-930〉の御代、右大臣にあった菅原道真〈すがわらのみちざね・845-903〉は、昌泰4年〈901〉正月、筑紫国大宰権帥に左遷された。突然の辞令は、「醍醐天皇を廃し、皇弟斉世親王〈ときよしんのう・886-927。妻は道真の娘)を擁立しようとした」という、左大臣藤原時平〈ふじわらのときひら・871-909〉の讒言によるもの。赴任してわずか2年の後、道真は同地で不遇の死を遂げた。その後、時平をはじめ、一門に不慮の災難に遭遇、ことに清涼殿の落雷で多くの朝臣が頓死するという事件は、時の公卿たちの不安を掻き立てた。これらはすべて道真の怨霊のなせる祟りと人々を恐怖の底に追いやった。このような風潮の中に、道真の霊を祀る、いわゆる天神信仰が起こり、諸国の天神社の建立、天神画像の制作、天神名号の揮毫などがさかんになった。道真の伝記、道真の怨霊説話、北野天満宮の創立由来、天神信仰による奇跡談などを含んだ「北野天神絵巻」も多く制作された。20種以上の遺品が現存する。この断簡は、「日蔵上人、六道をめぐる」の詞書の末尾部分と絵解きした絵の一部である。大和国金峰山の日蔵上人〈にちぞう・905?-985?〉は、承平4年〈934〉4月16日より笙岩屋に籠もり、塩や食を断つ行を始めた。8月1日午刻のころ、鈴杵を握りながら絶命したが、13日目に生き返った。その間、金剛蔵王の力によって閻魔宮や地獄を巡り、地獄の苦しみはまさに教典に説くとおりであった、という場面。この軸を収める箱には、絵を土佐行光〈とさゆきみつ・生没年未詳。14世紀後半の絵師〉、詞書の筆者を青蓮院宮尊道法親王〈そんどうほうしんのう・1332-1403〉と記されている。巻子本として伝来していたころ、奥書にあった所伝であろう。書風・画風から判断して室町時代・15世紀の作品と推定される。
(歩)ませたてまつり、心神をなやませり。二には、自高殿に坐して、父を下座に居へたてまつる。三には、無罪賢臣を配流し、四には久貧国位之間、多仏法をほろぼすにあへり。五には、我身の怨敵の故に他の衆生を損害す。此故に、此苦患を受く。汝、娑婆に帰て此苦を可祓之由、我諸の皇子に告申すべし、とのたまへり。
オブジェクトの概要
ライセンスなど
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グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Picture Scroll Depicting the History of the Kitano Tenjin
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
- 付属品
- 桐箱
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