冷泉為恭筆炎帝神農尊像

- 人物
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作者冷泉為恭
- 年代
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制作年 AD19
- タイトル
- レイゼイタメチカヒツエンテイシンノウソンゾウ
- 材質・技法・形状
- 絹本墨画淡彩
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- ミュージアム・コモンズ キャンパス 三田
これは、中国の古代の神話に見える、伝説上の帝王・炎帝神農(えんていしんのう)を描く。炎帝とは、もともと南方に位置し夏の季節をつかさどる神格化された帝王で、五行思想で「火」にあたる位置にいるところから、三皇の1人、神農と結びつき、炎帝神農と呼ばれて同じく三皇の1人である伏羲と皇帝の間に入る帝王として歴史化された。もともとは、人身首牛で、農具を発明、人民に農耕を教えたことによる名称である。また、草木を嘗めて薬草を探して医薬を作り、本草医学の神ともなったという。民衆のなかに広く信仰の対象とされた。画像では、草衣を着け、草木を嘗めるさまを描かれるのが多いが、本図は、長い白髪に、胸まで伸びる顎髭をたくわえる像に描く。筆者の冷泉為恭〈れいぜいためちか・1823-64〉は、幕末の復古大和絵派の画家。画家狩野永泰の第3子として京都に生まれる。が、みずからは冷泉姓を名乗り、のち岡田家の養子となって、菅原姓を名乗った。画ははじめ父にしたがって狩野派を学ぶが、やがて大和絵に興味を抱き、古寺名刹に伝来の古画の模写を通じて大和絵の手法を学び取っていった。「源頼朝像」(東京国立博物館蔵)「法然上人絵伝」(京都知恩院蔵)などの模写作品をはじめ多数の作品を残すが、安政4年〈1857〉の大樹寺(愛知県岡崎市)の障壁画はかれの代表作とされる。あわせて上代様の書法や有職故実にも精通した。が、晩年、「伴大納言絵詞」の模写を願い、その所有者である京都所司代酒井忠義邸に出入りしたことが、幕府に通じているとの風聞を招き、尊皇派の追手からの逃亡生活を余儀なくされた。上賀茂の神光院、紀州粉河寺へ身を隠したが、元治元年〈1864〉5月5日、大和丹波市(奈良市天理市)で長州藩士によって非業の死を遂げた。42歳であった。本図には、右脇下に、「文久二壬戌年夏五月日蔵人所衆関白直廬預従五位下行式部少丞兼近江守菅原朝臣為恭拝画(印「菅」)」の長い落款を記している。為恭が関白九条尚忠つきの関白直廬預になったのが安政3年〈1856〉8月、従五位下になったのは同5年正月のこと。よって、この作品は、為恭36歳以降の制作と知る。古筆や古画の模写修行によって培われた筆線の強さ、充実ぶりは、かれの才筆を物語るものである。
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Image of Deity of Medicine by Reizei Tamechika
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
- 付属品
- 外箱(二重箱)、コピー
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