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近衛信尹筆渡唐天神自画賛

Keio Object Hub
人物
年代
制作年 江戸時代(17世紀)
タイトル
トトウテンジンジガサン
材質・技法・形状
紙本墨画
コレクション
所管
ミュージアム・コモンズ キャンパス 三田
資料番号
AW-CEN-000467-0000
ライセンス
CC BY 画像ライセンス
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

URL
基本分類
美術
AIタグ
褐色 矩形 木材 アート フォント

左大臣・藤原時平〈ふじわらのときひら・871-909〉の讒訴によって、配所の筑紫国(福岡県)大宰府に左遷、同地で不遇の死を遂げた菅原道真〈すがわらのみちざね・845-903〉の怨霊を鎮めるためにおこった天神信仰は、長い歴史の中で多くの絵画遺品を生み出した。天神画像は礼拝像として描かれた道真の絵姿で、その形式は束帯天神(そくたいてんじん。笏を手に帯剣した文官の正装である束帯姿で描かれるもの)と、渡唐天神(ととうてんじん。冠をつけ中国の道服姿で梅の一枝を手挟んで立つもの)とに大きく二分できるが、典拠とした説話や、背景となった天神信仰の性格の変容などによって、さまざまなヴァリエーションがある。 これは、渡唐天神像の1つ。渡唐天神は、天神信仰が禅宗と結びついて生まれたもので、博多の崇福寺(そうふくじ)に出現して聖一国師(しょういつこくし=円爾弁円〈えんにべんえん・1202-80〉)に禅を問うた天神が、国師の薦めにより、宋・徑山(きんざん)の仏鑑禅師(ぶっかんぜんじ=無準師範〈ぶじゅんしばん・1178-1249〉)のもとに一夜のうちに渡って法衣を授けられたという説話(『両聖記』応永元年〈1394〉ころ成立)にもとづく図様である。帽をかぶり、道服(中国の道家たちの日常の衣装)を身につけた道真像を、文字絵にあらわした略画である。頭から顔にかけて、太い墨線が「天」の字、それに目鼻を加えて、道真の顔容をつくる。首から下の体躯には、草書体の「神」の字にあらわし、大きな構えで両袖や裾を絵様化している。画・賛ともに近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉の筆。信尹は桃山時代の公卿で、摂関家近衛家の当主。文禄元年〈1592〉、豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉の朝鮮出兵にみずからが総指揮をとるべく渡航従軍を企てたが失敗。同3年、義兄たる後陽成天皇〈ごようぜいてんのう・1571-1617〉の勅勘に触れ、薩摩国(鹿児島県)最南端、坊の津(ぼうのつ)に配流となった。後に帰洛し、還俗後、関白・氏長者さらには准三宮となった。歌道・書道に秀で、ことに書においては、近衛流(三藐院流)と称され、本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉とともに「寛永の三筆」の1人に挙げられ、不羈奔放の性格のままに、豪放自在、すこぶる個性的な書をかいた。この賛の書風もその典型である。上部に書かれた賛は『菅神宋授衣記』にみえる「唐衣、不織而北野之神也、袖爾為持梅一枝」に倣うもの。歌の末尾に信尹みずからの花押を加える。信尹は、しばしば京都・北野社(菅原道真を祭神とする日本總社)で連歌をしばしば興行している。また信尹は敬神のため、「百幅天神像」を描いたという(『古画備考』)。日課として1図ずつを完成して、満願に達したのであろう。今日、同様の遺墨が多く伝存、中には年紀をともなうものもあり、いずれもが慶長14年〈1609〉から同15年であることから、そのころに集中的に描いたものと思われる。「唐衣おらで北野の神ぞとは袖に持ちたる梅にても知れ」

オブジェクトの概要

ライセンスなど

資料番号
AW-CEN-000467-0000
ライセンス
CC BY
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

画像
ライセンス

所管・分類など

所管
ミュージアム・コモンズ
キャンパス 三田
URL
基本分類
美術

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オブジェクトの詳細

識別情報

タイトル(英題)
Tenjin (Heavenly God)

物理的特性

重量と数量
員数 1幅
付属品
賛の書き下し紙片

識別情報

タイトル(英題)
Tenjin (Heavenly God)

物理的特性

重量と数量
員数 1幅
付属品
賛の書き下し紙片