本多忠勝筆書状

- 人物
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作者本多忠勝(平八郎)
- 年代
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制作年 AD17
- タイトル
- ホンダタダカツヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
本多忠勝〈ほんだただかつ・1548-1610〉は、安土桃山~江戸初期の武将。幼名は鍋之助、通称平八郎。三河国に生まれる。天文18年〈1549〉に父・忠高が討死したために、幼少のころから徳川家康に仕えた。永禄3年〈1560〉に13歳初陣、以後、姉川の戦い(元亀元年〈1570〉)、長篠の戦い(天正3年〈1575〉)、小牧・長久手の戦い(同12年〈1584〉)などで戦功を挙げる。関ヶ原の戦いの後、伊勢国桑名城を与えられた。幕府草創期には、酒井忠次・榊原康政・井伊直政と並んで徳川四天王と称されて、徳川幕府の覇権確立に功績があった。家康の駿府隠退後は、中枢から退けられ、慶長15年〈1610〉10月18日、桑名で没した。63歳。領中の古参衆・新参衆それぞれに対して、新領地の名を書き付けた文書を、さらに新参衆へは収穫の予定数量を記した見積書を提出させるように、監督の小柳弥助兵衛(家臣の一人か)に申し送っている。忠勝が後年桑名に新領を得たころのものであろう。なお、署名の「中書(ちゅうしょ)」は中務(なかつかさ)の中国名。忠勝は、天正16年〈1588〉41歳のときに中務大輔(中務省の次官)に叙任している。「古参の衆、新参衆へ、早出だし候知行所付の帳、又、新参衆へ知行未だ出だし候はぬ米計り出し、知行高積り書立て、早やかに給うべく候。恐々かしく。中書小柳弥助兵衛殿参る」
古参之衆新参衆へはや出候知行所付之帳又新参衆へ知行未出シ候ハぬ米計出知行高積り書立て早可給候恐々謹言中書「封」小柳弥助兵衛殿まいる
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Honda Tadakatsu
物理的特性
- 重量と数量
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員数 1幅
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