弘法大師(空海)像
空海〈くうかい・774-835〉は真言宗の開祖。延暦23年〈804〉、31歳の時、留学僧として入唐。恵果に師事して密教の奥義を受け、帰朝にあたっては、中国の文物を数多く日本にもたらした。教王護国寺(東寺)を拠点に密教の宣布に努め、弘仁7年〈816〉には、高野山に金剛峯寺を開き、即身成仏と社会教化を宗旨として幅広く活躍し、大きな業績を残した。62歳の時、高野山で示寂。弘法大師と諡された。空海に対する篤い信仰は、死後まもないころから始まるが、平安末期のころには貴族社会にも大きな広まりをもっていた。そうした大師信仰の中に、真言八祖の1図として、あるいは単独像としても数多く描かれた。この画は、背もたれのない牀座に坐す姿に描かれる。これは、八祖様と呼ばれるもので、空海将来の真言五祖(金剛智・善無畏・不空・恵果・一行)に龍智・龍猛を加えた真言七祖に倣って作られた空海像。すなわち真言八祖像のうちの空海画像の系譜である。醍醐寺五重塔初層壁画はその最も古い遺例である。仏画としても絹地彩色の大幅で、しかるべき大寺あるいは名家の伝来を思わせる。じつは、本図の左端下に「嘉禎四年戊戌正月十八日僧厳海」の墨書銘がある。厳海の名は、藤原定家の日記『明月記』にしばしば登場する僧名で、それらを総合すると、かれは教王護国寺(東寺)の僧で、法印まで進み、定家と親交を結んだ人であった。また、九条兼実の曾孫・厳恵がこの厳海の弟子であったという(『尊卑分脈』)。これらにより、厳海は鎌倉時代・13世紀半ばころに活躍した真言宗の僧侶ということになる。とすると、この画像は、かれの願趣により制作されたと考えるのが妥当ではなかろうか。さらに、この軸の背面には、「奉為芸陽太守御武運長久御息災延命御子孫繁昌万民安全五穀成就」の墨書が記されている。芸陽太守は、芸州広島藩主浅野家氏のこと。たまたま浅野家に仕える家臣団の真言信徒が、主君浅野氏の武運長久ならびに息災延命等々の祈りを込めて寄進したものではなかったか。
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Portrait of Priest Kukai
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
- 付属品
- 二重箱/包袋
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