北条時元筆書状

- 人物
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作者北条時元
- 年代
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制作年 AD14
- タイトル
- ホウジョウトキモトヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
北条時元〈ほうじょうときもと・?-1333。本姓は平氏、名越氏とも〉は、従五位下・左近衛将監北条時国〈ときくに・?-1284〉の子で、土佐守。法名は昭実。鎌倉時代末期、将軍久明親王〈ひさあきらしんのう・1276-1328〉・執権北条貞時〈さだとき・1272-1311〉の歌好みはいうまでもなく、関東における武家歌人はすこぶる多く、時元を含む北条一系をはじめ、大江・二階堂・上杉・土岐氏の人々は、いずれも歌に秀で、それぞれ『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』の作者として知られ、当時の関東歌壇の有力な一翼を担っていた。時元は、両勅撰集のほか、『続千載和歌集』『柳風』『続現葉和歌集』などに入集しており、歌人としての力量を示している。正慶2年〈=元弘3年・1333〉5月、鎌倉に侵攻した新田義貞軍に追われ、父ともども鎌倉東勝寺(鎌倉市小町にあった臨済宗の禅寺。今は廃寺)において、自害して果てた。享年は不明。この手紙は、某年5月5日に催された当座の根合(5月5日の端午の節句に、菖蒲の根の美しさ長さを競った遊戯)、それに続いて行われた絵合(物合の一種で、左右に分かれ、それぞれ提出の絵巻物の優劣を競った)について報じたものである。宛名の「兵部卿」は、おそらく久明親王の子・煕明親王〈ひろあきらしんのう=五辻宮・?-1348〉ではなかろうか。『風雅和歌集』の作者でも知られる歌人でもあった。同親王は、伏見天皇の猶子ともなり、三品兵部卿に任じられている。歌人時元の周辺を知ると同時に当時の歌壇をうかがう貴重な遺墨でもある。「遙かに久しく見参に入らず候。真実、本意を失い候。自他懈怠に候か。早やかに見参に入り申し謝すべく候。抑も比興に候と雖も、申し状に候。或る仁等、少々、去る五月五日、当座に於いて根合の勝負事に候。その後、又、絵合の会に及び候。今日、勝負を合さず終わり候い了んぬ。結句、彼の輩申し候は、大に候、梅を合せ候わんと申し候。来る二日の由談義候。彼の会に取り入れられ候。比興の次第に候。正福寺の内に飛梅候の由承り候事、実に候哉。只一二大切に候。大に候はんずるを撰び給うべく候。直には案内無く候の間、御方へ申さしめ候。若し、さも候はば、二日早旦に給うべく候。若し自余の仁等申す旨に候と雖も此の会為るべく候の間、御許容有るべからず候。態と申さしめ候。御察し有るべく候。事々、面謁の時を得候。恐々謹言。五月三十日時元/兵部卿殿」
遙久不入見参候真実失本意候自他懈怠候歟早入見参可申謝候抑雖比興候申状候或仁等少々去五月五日於当座根合勝負事候其後又及絵合会候今日不合勝負終候了結句彼輩申候ハ大ニ候梅を合候ハんと申候来二日之由談議候彼会ニ被取入候比興次第候正福寺の内に飛梅候之由承候事実ニ候哉只一二大切候大ニ候ハんするを可撰給候直にハ無案内候之間御方へ令申候若さも候ハヽ二日早且ニ可給候若自余仁等雖申旨候可為此会候之間不可有御許容候態令申候可有御察候事々得面謁之時候恐々謹言五月卅日時元兵部卿殿
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Hojo Tokimoto
物理的特性
- 重量と数量
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員数 1幅
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