芳春院筆消息

- 人物
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作者芳春院
- 年代
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制作年 AD17
- タイトル
- ホウシュンインヒツショウソク
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
芳春院〈ほうしゅんいん・1547-1617〉は金沢藩祖・権大納言前田利家〈まえだとしいえ・1537-99〉の正室。本名まつ。永禄元年〈1558〉12歳のとき、20歳の利家と結婚。嫡男利長(第2代金沢藩主)ら二男九女を生む。慶長4年〈1599〉閏3月3日に利家が死去。その直後に出家して尼となり、芳春院と号した(53歳)。また京都紫野の大徳寺内に芳春院を建立した。この頃利長と徳川家康の間が険悪になり、芳春院は自ら人質として江戸に下った。以後、慶長19年〈1614〉6月まで(68歳)、足掛け15年間の江戸暮らし、71歳で金沢にて没した。健康で聡明、深い教養の女性であったという。この手紙は、前田家家臣・村井長次〈むらいながつぐ・通称出雲・1568-1613〉に宛てたもの。文中に「おわりのふしんもやう/\すみ申候て」とあるところから、書写年代が判然とする。つまり、慶長15年〈1610〉閏2月8日、第3代金沢藩主・前田利常〈まえだとしつね・1593-1658〉は、幕府から尾張名古屋城の築造助役を命ぜられた。他にも肥後熊本城主加藤清正や播磨姫路城主池田輝政らの諸国の大名が参集して、名古屋の地に仮舎を設けて築城に精励し、同年十月に普請を終えて、助役の諸大名らは帰国している。右の文面は、この時のことをいうもの。時に芳春院は64歳であった。流麗な筆致、数少ない女性の手紙として注目すべき一通である。文末の署名「はう」は、芳春院の略である。「一筆申し参らせ候。先々、上(京都)より五文字(前田利政の娘か)下り候て、色々、御肝煎、御造作の由、数々、御嬉しく思い参らせ候。肥前(肥前守利長)も機嫌の由、満足申し参らせ候。尾張の普請も漸う済み申し候て、皆々、やがて帰りと申し候。これもめでたく思い参らせ候。かしく。返々、五文字事、色々、御肝煎、御嬉しさ申し尽くし難く、思い参らせ候。目出度さ是より申し候べく候。又野田の事、繁応何かと申し候はば、先々、象山を御還り候へとて、御置き候べく候。その上にて止住が候べく候。此方にては請乞い候て参り、左様に申し候、盗人にて候。かしく。二十四日出雲殿参る申給へ。芳(春院)より」
[上段]申つく返々五もしし事 かたく色々御きも入思ひ御うれまいらせ候しさ 一ふて申めてたさまいらせ候まつ/\かミこれよりより申候へく候五もしくたり候て又のたの事色々御きも入はんのう御さうさ のよしかす/\ 何かと申候ハゝ御うれしくまつ/\おもひまいらせ候そうさんをひせんもきけん御かへり候へとてのよしまん御おき候へく候そく [下段]申まいらせ候そのうへにておわりのふしんもしちうかやう/\候へく候すミ申候てこなたにてハみな/\うけこい候てやかてかへりと 申候まいりさやうに申候これもめてたくぬす人思ひまいらせ候かしくにて候かしく廿四日よりいつも殿まいるはう申給へ
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Hoshun-In
物理的特性
- 重量と数量
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員数 1幅
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