佐川田昌俊筆書状

- 人物
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作者佐川田昌俊
- 年代
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制作年 AD17
- タイトル
- サカワダマサトシヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
佐川田昌俊〈さかわだまさとし/しょうしゅん・1579-1643〉は、江戸初期の武士。連歌作者としても有名。本姓は高階(たかしな)氏。通称は喜六。壺斎・黙々斎・臥輪・不二山人などを号した。上杉家臣木戸玄斎に仕え、その養子となる。養父の感化をうけ歌道を志し、飛鳥井雅庸〈あすかいまさつね・1569-1615〉・近衛信尋〈このえのぶひろ・1599-1649〉らに学んでその道を究めた。加えて連歌にも秀で、里村昌琢〈さとむらしょうたく・1575-1636〉は、「板東に昌俊あり」(昌俊は下野の出身)と称賛したという。茶道は小堀遠州〈こぼりえんしゅう・1579-1647〉に師事、武将茶人としても聞こえた。また、永井直勝〈ながいなおかつ・1563-1625〉・尚政〈なおまさ・1587-1668〉父子に仕えて、大坂冬の陣に軍功をあげるなど、武人の出自の面目もほどこした。が、寛永15年〈1638〉致仕して、山城国薪村の酬恩庵の境内に隠退してからの晩年は、林羅山・木下長嘯子・松花堂昭乗など、当時の一流文化人と交流、文雅の生活を送った。この手紙の宛名「中沼左京」は、松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1582-1639〉の3歳年上の兄。幼少のころ近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉に引き立てられ、その縁故で興福寺一乗院の諸大夫をつとめる中沼家の養嗣子となる。元和6年〈1620〉に左京亮に任じたことから左京と通称される。小堀遠州の妹を妻に迎えている。すなわち、親交を結んだ昭乗・遠州・信尋ら、いずれも姻戚関係に結ばれている。手紙の内容は、茶事に用いるべき花の手配についてのもの。椿はすでに京洛にて入手すべく手配済み、牡丹について、興福寺一乗院境内の柿色・白色の牡丹のうちどちらか一方をお分けいただきたいと願い出る。「掃除する……」の狂歌一首を最後に添えているのも、歌に秀でた昌俊らしい一面がうかがわれる。その達筆の書は、当時通行の青蓮院(しょうれんいん)流の筆致である。「一筆啓達せしめ候。然れば、竹田権兵衛方迄、花の儀に御状給い候。椿・牡丹、色々御接せ給うべき由、忝なく存じ候。去りながら、椿は大形京都にて求め申し候間、入り申さず候。白牡丹御分け下さるべきの旨、是又、忝なく存じ候。此者、花をも御添え給うべく候。若し花散り候て蘂なりとも此の通りの花と仰せられて給うべく候。猶、面談の時を期し候。恐々謹言。猶以って、一門様(一乗院門跡御所)に柿色の牡丹、黄色の牡丹御座候由、承り候。二色の内、一色申し請け度く候へども、申し出で候事は、如何と躊躇ひ有る事に候故、其の様にて申し入れ候。此の段、拝領願い上げ奉り候。/掃除する男も肥て牡丹哉/ 一笑、一笑。三月十一日佐川田喜六中沼左京様」
猶以一門様ニかきいろの牡丹きいろの牡丹御座候由承候一筆令啓達候二色之内一色申請度候然者竹田権兵衛へ共申出候事ハ如何と方迄花之儀ニためらひ有事ニ候故御状給候椿牡丹貴様にて申入候此段色々御接せ可給拝領奉願上候由忝存候乍去掃除する男も椿ハ大形京都ニ而肥て牡丹哉求申候間入不申御一笑/\白牡丹御分可被下之旨是又忝存候此者花をも御添可給候若花散候て蘂成共此通之花と被仰て可給候猶期面談之時候恐々謹言三月十一日佐川田喜六中沼左京様
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Sakawada Masatoshi
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
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