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藤木敦直筆消息

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人物
年代
制作年 AD17
タイトル
フジキアツナオヒツショウソク
コレクション
所管
斯道文庫 キャンパス 三田
資料番号
AW-CEN-001137-0000
ライセンス
CC BY 画像ライセンス
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

URL
基本分類
美術
AIタグ
矩形 フォント パターン モノクロ 視覚芸術

藤木敦直〈ふじきあつなお・1582-1649〉は、賀茂社の神主・藤木主馬助教直(のりなお)の子。従五位上・甲斐守に任ぜられ、藤木甲斐と通称、のち正心斎とも号した。『鑑定便覧』によれば、「翁曽て年十九に至るまで筆を執ることを知らず。一日人あって其愚を責む。爰に於て憤発して大志を立て、……」とある。以来発憤勉学を志し、書道を飯河秋共(いいかわあきとも)や伯父の藤木駿河守成定(なりさだ)について学ぶ。その書法は、弘法大師空海の書を規範として生まれた、いわゆる大師流であった。その大師流の継承者となった敦直は、賀茂流あるいは甲斐流と呼ばれる一派を形成するに至った。多くの門人を輩出し、敦直の子寂源(じゃくげん)、本庄道芳(ほんじょうみちか)、寺田無禅(てらだむぜん)、荒木素白(あらきそはく)、佐々木志津磨(ささきしずま)などが知られる。この書状は、敦直の門弟の一人で、敦直の書法の後継者たる本庄宮内大輔道芳〈ほんじょうみちか・1604-68〉に宛てたもの。はじめ二条家の諸大夫で、北大路宮内少輔と称した。5代将軍綱吉の生母桂昌院の兄にあたる。慶安元年〈1648〉4月、天海版一切経の転読供養のための法会の勅使として、前摂政二条康道(にじょうやすみち)が江戸に下向。道芳も随伴、かれはそのまま江戸に留まった。桂昌院との縁によって、徳松君(のちの綱吉)のお守役のためであった。そこで北大路を改め本庄を称したという。書面によると、『書史会(要)』(陶宗儀撰。上古から元代までの能書家の伝記と書風を記したもの)と『書譜』(孫過庭の書論)の写本の借用を申し出ている。賀茂社からの発信を考え合わせると、道芳在京中のやりとりとなる。敦直60歳前後の筆跡と推定される。見るからに大師流の書法が歴然とした書風である。「久しく芳意を得ず、御床布存じ奉り候。参上を以って申し上げ候事、来る十七日迄は貴辺御制法の穢に候条、其れ過ぎ候て伺公致すべく候。権七も大形能く罷り成り候。明日、内々御礼に罷り出で候はんよし申し候へども、参上を止めさせ申し候。恐惶謹言。尚々、正意無き事に打ち暮らし申し候。『書史会(要)』『書譜』便宜になりとも待ち申し候。新写(写本)・正本(原本)共に下さるべく候。拝覧申し度く候。 四日賀茂より宮内太(大)輔様人々甲斐」

[端裏書]宮内太輔様人々甲斐かもより尚々無正意事に打暮申候書史會書譜久敷不得芳意御便宜ニなりともまち申候床布奉存候以新写正本共に参上申上候事来十可被下候拝覧申度候七日迄は貴邊御制法之穢候条其過候而可致伺公候権七も大形よく罷成候明日内々御礼ニ罷出候ハんよし申候へとも参上止させ申候恐惶謹言四日(花押)

ライセンスなど

資料番号
AW-CEN-001137-0000
ライセンス
CC BY
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

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斯道文庫
キャンパス 三田
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美術

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オブジェクトの詳細

識別情報

タイトル(英題)
Letter by Fujiki Atsunao

物理的特性

重量と数量
員数 1幅

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タイトル(英題)
Letter by Fujiki Atsunao

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員数 1幅