近衛信尹筆書状

- 人物
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作者近衛信尹
- 年代
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制作年 AD16
- タイトル
- コノエノブタダヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉は、桃山時代の公卿。関白太政大臣前久〈さきひさ・1536-1612〉の嫡男として生まれ、天正5年〈1577〉13歳で元服。加冠の役をつとめた織田信長〈おだのぶなが・1534-82〉の一字を与えられて信基、ついで信輔と称した。わずか21歳で従一位・左大臣に昇進。文禄元年〈1592〉正月、左大臣を辞す(28歳)。同12月、文禄の役に際して朝鮮渡海を企て、肥前(佐賀県)名護屋に下向したが、豊臣秀吉の上奏により後陽成天皇の勅勘を蒙り、同3年、薩摩国坊津(ぼうのつ・鹿児島県川辺郡坊津町)へ配流された。平安時代末期以来、薩摩は近衛家の所領であったために、藩主島津氏の厚遇を得て、和歌・連歌・茶の湯の明け暮れであった。慶長元年〈1596〉9月、赦されて帰京。同4年、信尹と改名。同6年には左大臣に還任して、同10年7月、関白・氏長者となり、牛車・兵仗を勅許された。同8年、准三后を賜わる。同19年11月25日、50歳で没した。院号は三藐院(さんみゃくいん)。一字名は杉。歌道・書道に優れ、絵画もまた能くした。ことに書においては、本阿弥光悦・松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」の一人に挙げられる傑出した能書として有名である。宛名の「再六老」は、六六山人(ろくろくさんじん)を号した石川丈山〈いしかわじょうざん・1583-1672〉のこと。かれは、藤原惺窩〈ふじわらせいか・1561-1619〉に学んだ漢詩人・書家として有名。これは、信尹自作の七言絶句の狂詩「念仏無間無釈文……」の添削を申し入れたもの。この詩以外にも何篇かを送っていたらしく、それらについても宜しき指導を乞うている。その中の一つに「ショウ強」の字句があったのであろう。その「ショウ」の字につき、「情」「性」いずれが適当か、返事を望んでいる。信尹と丈山の交流、また、信尹の漢詩趣味の一面が垣間見える貴重な資料である。「一昨日は、昼夜申し承り、本懐殊更仕合よく候て、御帰寺、珍重。/念仏無間無釈文日蓮宗所立無紛辞連署各企兵乱坊主武辺奈敗軍/余人の異見を聞き候はぬまゝ、狂詩を遣わし度く候。而して、右の外も直され候て給うべく候。「シヤウ強」の「シヤウ」は「情」歟、「性」歟。又、啓札、此の者に給うべく候事、所望に候。かしく。再六老(石川丈山)三木(=杉)」
一昨日者昼夜申承本懐殊更仕合よく候て御帰寺珍重 念仏無間無釈文日蓮宗(師)所立無紛辞連署各企(起)兵乱坊主武邊奈敗軍餘人之異見をきゝ候ハぬまゝ狂詩を遣度候而右之外も被直候て可給候シヤウ強ノシヤウハ情歟性歟又啓札此者ニ可給候事所望候かしく[封]再六老三木
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識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Konoe Nobutada
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- 重量と数量
-
員数 1幅
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