三条西実隆筆書状

- 人物
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作者三条西実隆
- 年代
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制作年 AD15
- タイトル
- サンジョウニシサネタカヒツショジョウ
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
三条西実隆〈さんじょうにしさねたか・1455-1537〉は室町時代の公卿。高い教養と学識をそなえた文化人として著名な人物。内大臣公保〈きんやす・1398-1460〉の二男であるが、兄実連が夭折したため、4歳で家督を継いだ。その際に初名公世(きんせい)を公延(きんのぶ)と改名、文明元年〈1469〉の元服の時に実隆と改めた。以後昇進を重ね、永正3年〈1506〉に内大臣に至った。和漢の学や有職故実に通じ、『源氏物語』はじめ古典の考究にはげみ、一条兼良〈いちじょうかねよし・1402-81〉のあとをうけて、中世和学の興隆を着実に推進した。また、和歌においても、飯尾宗祇〈いいおそうぎ・1421-1502〉、東常縁〈とうのつねより・1401-?〉から古今伝授をうけ、豊かな歌才を発揮した。牡丹花肖柏〈ぼたんかしょうはく・1443-1527〉とは同門の間柄にあり、茶の湯で有名な武野紹鷗〈たけのじょうおう・1502-55〉は、実隆門下の一人である。実隆は書も能くし、彼の書風は三条流(逍遙院流とも)と呼ばれ、多くの追従者を出した。彼の日記『実隆公記』は室町後期の基本史料として重要。これは、文面から、2月9日における禁中の月次御会に出座の可否を求めて、権大納言三条西実隆が、連座の公卿衆に回覧したもの。最末尾の「新少納言殿」が、この手紙の年代を決める鍵。高辻(菅原氏)章長〈たかつじのりなが・1469-1525〉が延徳2年〈1490〉正月の除目において、少納言に任ぜられている。この手紙の日付「二月四日」に新少納言というにふさわしいのは、この人。とすると、この手紙は、延徳2年2月4日の発信と断定される。かれの日記『実隆公記』がそれを裏付けている(同日記同日条参照)。当日は、土御門天皇・勝仁親王(後柏原天皇)臨席のもとでの内々和漢聯句の御会で、宮中黒戸(清涼殿萩の戸の北、滝口の戸の西にあった部屋)において行われたという。実隆は36歳。それぞれの宛先は次のとおり。柳原資綱(従一位・前権大納言)74歳/勧修寺教秀(正二位・権大納言)65歳/中御門宣胤(従二位・権大納言)49歳/四条隆量(正三位・権大納言)62歳/町広光(従二位・前権中納言)47歳/武者小路縁光(従二位・権中納言)50歳/冷泉政為(正三位・権中納言)46歳/中院通世(正四位下・参議)26歳/姉小路基綱(正三位・参議)50歳/高辻章長(従三位・少納言)39歳
[端裏書] 三品勝仁親王六位上道阿弥諸所様右当年別給所明応二年三月‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐当月御會事来九日之由被仰下候也二月四日実隆柳原殿「歓楽仕候煩減候者可致祗候候」勧修寺殿「奉」中御門殿「奉」四条殿「明日可申入候」町殿武者小路殿「御方」冷泉殿「方」中院殿「奉」「以便宜可申下候 久我殿被伝申給候哉」姉小路殿「奉」新少納言殿「奉」**「」内は、回文をうけた証左。それぞれ当人の加筆。
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Sanjonishi Sanetaka
物理的特性
- 重量と数量
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員数 1幅
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