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徳川秀忠筆書状

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人物
年代
制作年 AD17
タイトル
トクガワヒデタダヒツショジョウ
コレクション
所管
斯道文庫 キャンパス 三田
資料番号
AW-CEN-001807-0000
ライセンス
CC BY 画像ライセンス
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

URL
基本分類
美術
AIタグ
フォント 矩形 アート スロープ 手書き

徳川秀忠〈とくがわひでただ・1578-1632〉は、徳川家康〈とくがわいえやす・1542-1616〉の第三子。徳川2代将軍。院号を台徳院(たいとくいん)という。慶長10年〈1605〉将軍職を譲られ、28歳で正二位・内大臣、征夷大将軍となった。同19年〈1614〉従一位・右大臣、寛永3年〈1626〉太政大臣にいたる。一方、学問にも熱心で、文化人としても傑出していた。茶道を古田織部〈ふるたおりべ・1543-1615〉に学ぶ。また、「書流系譜」によれば、素眼流(そげんりゅう)にその名があげられる。この手紙では、相手の病状(虫気=腹痛)を気遣いながらも、当人の体の具合も調子よくない。キンカを貰って服用したものの、10日経過するもその効き目がないという。その上で、西の丸への早速の来訪を乞うている。キンカは、金柑(きんかん)の略。金柑は、ミカン科の柑橘類で、咳止めなどその効能により、煎じて風邪薬にもされたという。文面の様子により、秀忠自身も折柄、体調を崩していたのであろう。この遣り取りから、宛名の相手は医者を想定させる。とすると、宛所の「民(部卿)様」は、秀忠に近侍した医師・民部卿法印曲直瀬玄朔〈まなせげんさく・1549-1631〉ではなかったか。たまたま秀忠は、寛永8年〈1631〉2月中頃体調を崩していた。『大猷院御実紀』によれば、同年2月22日に、秀忠に治療の投薬が記され、およそ10日経った同年3月4日再び西の丸に伺候して薬を投与している。さらに、この年の暮れ12月10日に玄朔は死去する。この手紙にある「虫気」が原因であったのではなかろうか。となると、この手紙は寛永8年3月、秀忠53歳、亡くなる前年のものとなる。「今日は、長風呂に御入り成され候間、自然、御虫気(腹痛)にも御座候哉。御心許無く存ずる所に候由、御競など成され候て、早々、御待ち奉り候。キンカ(金柑の略)ことも、十日に余り申し候へども、其の験(薬効)も御座無く候。仍って拝受忝かるべくと存じ候。かしく。/尚々、早々、光義(儀=来臨)待ち入り候。さりながら、唯今西の丸へ参り候間、罷り帰り候はば、御出尤に候。民(部卿)様」

尚々早々光義待入候さりなから唯今西之丸へ参候間今日者長風呂ニ罷帰候者御出尤候。御入被成候間自然御虫気ニも御座候哉無御心元存所候よし御きほひなと被成候て早々御奉待候。キンカことも十日ニあまり申候へとも其しるしも無御座候仍拝受可忝存候かしく民様

ライセンスなど

資料番号
AW-CEN-001807-0000
ライセンス
CC BY
クレジット表記

慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)

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斯道文庫
キャンパス 三田
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美術

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オブジェクトの詳細

識別情報

タイトル(英題)
Letter by Tokugawa Hidetada

物理的特性

重量と数量
員数 1幅

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タイトル(英題)
Letter by Tokugawa Hidetada

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重量と数量
員数 1幅