明智光秀筆書状

- 人物
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作者明智光秀
- 年代
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制作年 AD16
- タイトル
- アケチミツヒデヒツショジョウ
- 材質・技法・形状
- 紙本墨書
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- 斯道文庫 キャンパス 三田
明智光秀〈あけちみつひで・1528-82〉は、桃山時代の大名。通称十兵衛。出自は美濃の土岐(とき)氏。永禄11年〈1568〉9月、織田信長〈おだのぶなが・1534-82〉が足利義昭〈あしあがよしあき・1537-97〉を奉じて初上洛したころより、信長に側近として認められるようになる。天正10年〈1582〉、毛利勢を備中高松城にて包囲していた羽柴秀吉〈はしばひでよし・1536-98〉が救援を求め、光秀は出陣を命じられた。光秀が途中、洛北愛宕(あたご)山で里村紹巴〈さとむらじょうは・1524-1602〉らと催した連歌の会での発句、「時は今あめ(雨=天)が下知る五月かな」は光秀謀反の決心を示したものといわれる。6月1日夜、信長を襲撃した京都・本能寺の変。しかし、13日には秀吉に山崎の戦いで敗れ、逃走中に小栗栖野において土民に竹槍で襲われ、むなしい最後を遂げた。この手紙は、天正7年〈1579〉9月21日、信長の下知をうけた光秀が、丹後国攻略のため出陣に際し、愛宕山の威徳院に戦勝祈願した時のもの。光秀は当座の奉賽として、金座の後藤四郎兵衛刻印の銀子5枚を奉加した。成就の暁には土地一所の寄進方を誓約している。翌22日には丹波国領城を攻略した。光秀は52歳であった。「今日、二十一(日)、丹後国に至り出陣仕り候。彼の表、心懸け候地、所々、存分に任せ申し付け候様に、別して御祈念仰ぐ所に候。存知寄る儀どもを相叶うに於いては、一所、寄進仕るべく候。仍って銀子五枚、奉納せしめ候。後藤四郎兵衛へ、刻判させ候。目出たく、毎々、慶事申し述ぶべく候。恐々謹言。九月二十一日。光秀(花押)愛宕山威徳院御同宿中」
今日廿一至丹後国出陣仕候彼表心懸候地所々任存分申付候様ニ別而御祈念所仰候寄存知儀共於相叶者一所寄進可仕候仍銀子五枚令奉納候後藤四郎兵衛へ刻判させ候目出度毎々慶事可申述候恐々謹言九月廿一日光秀(花押)愛宕山 威徳院 御同宿中
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
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オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Letter by Akechi Mitsuhide
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
- 付属品
- 旧蓋裏の書付
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