狩野探幽筆柿本人麿像

- 人物
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作者狩野探幽賛者道寛入道親王
- 年代
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制作年 AD17
- タイトル
- カノウタンユウヒツカキノモトノヒトマロゾウ
- 材質・技法・形状
- 絹本着色
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- ミュージアム・コモンズ キャンパス 三田
絹地に鮮やかな彩色で柿本人麿像を描く。歌仙信仰の長い歴史の中で、柿本人麿は歌道の聖として崇められ、人々からひときわ高い信仰を集めてきた。以来、人麿を祀る人麿影供(人麿供とも)が生まれた。これは、歌会において、床に人麿の画像を掛け、歌聖柿本人麿を供養する儀礼で、歌道の向上を願い、あるいは歌会の成功を祈ったのである。平安時代・12世紀から起こった風習である。本画像の筆者は、狩野探幽〈かのうたんゆう・1602-74〉。桃山時代の大和絵絵師永徳〈えいとく・1543-90〉の孫。父孝信〈たかのぶ・1571-1618〉の没後、江戸に下って徳川幕府の奥絵師となり、鍛冶橋門外に屋敷を得て、鍛冶橋狩野家を興し、江戸における狩野家繁栄の基盤を築いた。豪華な桃山様式にかわる瀟洒で淡泊な画風に新境地を拓き、以後の江戸絵画に強い影響を与えた。二条城や名古屋城など障壁画の大作のほかに絵巻や歌仙絵小品の遺品も数多く残している。繊細な筆を駆使したこの人麿像にも、かれの本領が遺憾なく発揮されている。図上の賛は、柿本人麿の代表的詠歌と伝えられるもので、『古今和歌集』(巻第六・冬歌)・『拾遺和歌集』(巻第一・春歌)に収められる。筆者は、後水尾天皇の第13皇子・道寛親王〈1647-76〉である。明暦3年〈1657〉、11歳の時に剃髪して道寛を名乗り、聖護院門跡となっている。寛文8年〈1668〉には園城寺の長吏に出世(22歳)。絵の落款に「探幽斎」の朱文長方印が捺されるが、この号は、寛永12年〈1635〉に江月宗玩から授かったもの。道寛の年齢関係から、およそ探幽の60代の作品と推定される。鎌倉時代から歌道の世界で行われていた人麿影供(歌会際に柿本人麿の画像を床に懸けて祭る風習)の風潮の中に生まれたものである。画家・賛者の組み合わせから、将軍家あるいは上流公卿の需めに応じて制作されたものであろう。「梅の花それとも見えず久方の天霧る雪のなべて降れれば」
梅の花それとも見えず久かたのあまぎる雪のなべてふれゝば
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
Keio Object Hub では、データのオープン化を進めるだけではなく、オープン・データを活用してどのような体験がデザインできるか、さまざまな試みを行っています。
オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Portrait of Kakinomoto no Hitomaro by Kano Tanyu
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
- 付属品
- 大倉好齋 1846 55才 (戌申)極札
来歴
Keio Object Hubでは、試験的な取り組みとして、AI(機械学習)を用いてキーワードを付与し、検索やフィルタリングに使用しています(AIサジェスト)。
初期ローンチ時は、Google Cloud の Vision APIを利用して、各オブジェクトの画像を解析し、自動的にキーワードを付与しています。