近衛信尹筆渡唐天神自画賛

- 人物
-
作者・賛者近衛信尹
- 年代
-
制作年 江戸時代(17世紀)
- タイトル
- コノエノブタダトトウテンジンジガサン
- 材質・技法・形状
- 紙本墨画
- コレクション
- センチュリー赤尾コレクション
- 所管
- ミュージアム・コモンズ キャンパス 三田
左大臣藤原時平の讒訴によって、配所の筑紫国(福岡県)太宰府に左遷、同地で不遇の死を遂げた菅原道真〈すがわらのみちざね・845-903〉の怨霊を鎮めるためにおこった天神信仰は、長い歴史の中で多くの絵画遺品を生み出した。天神画像は、礼拝像として描かれた道真の絵姿で、その形式は、束帯天神(笏を手に帯剣した文官の正装である束帯姿で描かれるもの)と、渡唐天神(冠をつけ中国の道服姿で梅の一枝を手挟んで立つもの)とに大きく二分できるが、典拠とした説話や、背景となった天神信仰の性格の変容などによって、さまざまなヴァリエーションがある。 これは、渡唐天神像の1つ。渡唐天神は、天神信仰が禅宗と結びついて生まれたもので、博多の崇福寺に出現して聖一国師(円爾弁円〈えんにべんえん・1202-80〉)に禅を問うた天神が、国師の薦めにより、宋・徑山の仏鑑禅師(無準師範〈ぶじゅんしばん・1178-1249〉)のもとに一夜のうちに渡って法衣を授けられたという説話にもとづく図様(『両聖記』応永元年〈1394〉ころ成立)である。帽をかぶり道服(中国の道家たちの日常の衣装)を身につけた道真像を文字絵にあらわした略画である。頭から顔にかけて、太い墨線が「天」の字、それに目鼻を加えて、道真の顔容をつくる。首から下の体躯には、草書体の「神」の字にあらわし、大きな構えで両袖や裾を絵様化している。 画・賛ともに近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉の筆。信尹は、桃山時代の公卿で、摂関家近衛家の当主。文禄元年〈1592〉、秀吉の朝鮮出兵にみずからが総指揮をとるべく、渡航従軍を企てたが失敗。同3年、義兄たる後陽成天皇の勅勘に触れ、薩摩国最南端、坊の津に配流となった。後に帰洛し、還俗後、関白・氏長者さらには准三宮となった。歌道・書道に秀で、ことに書においては、近衛流(三藐院流)と称され、本阿弥光悦・松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」の1人に挙げられ、不羈奔放の性格のままに、豪放自在、すこぶる個性的な書をかいた。この賛の書風もその典型である。信尹は、しばしば京都・北野社(菅原道真を祭神とする日本總社)で連歌をしばしば興行している。また、信尹は敬神のため、「百幅天神像」を描いたという(『古画備考』)。日課として1図ずつを完成して、満願に達したのでろう。今日、同様の遺墨が多く伝存、中には年紀をともなうものもあり、いずれもが慶長14年〈1609〉から同15年であることから、そのころに集中的に描いたと思われる。この賛歌は、通常の天神画には見られない歌であるが、天神信仰の広まりを思わせる歌意である。「梅あらばいやしき賤が伏屋まで我立ち寄らん悪魔しりぞけ」
むめあらばいやしきしづがふせやまでわれたちよらん悪魔しりぞけ
オブジェクトの概要
ライセンスなど
所管・分類など
グループのオブジェクト
OPEN DATADESIGN
Keio Object Hub では、データのオープン化を進めるだけではなく、オープン・データを活用してどのような体験がデザインできるか、さまざまな試みを行っています。
オブジェクトの詳細
識別情報
- タイトル(英題)
- Image of Tenjin by Konoe Nobutada
物理的特性
- 重量と数量
-
員数 1幅
- 材質・技法・形状
-
材質 高麗紙/軸頭塗バチ型
- 付属品
- 二重箱
来歴
Keio Object Hubでは、試験的な取り組みとして、AI(機械学習)を用いてキーワードを付与し、検索やフィルタリングに使用しています(AIサジェスト)。
初期ローンチ時は、Google Cloud の Vision APIを利用して、各オブジェクトの画像を解析し、自動的にキーワードを付与しています。